「移民大流入」に日本人が耐え得るのかとの問い掛けがない新潮の特集

◆欧州とは条件異なる

 知り合いの都内の大学に通う女子学生のアルバイト先は秋葉原のしゃぶしゃぶ屋だ。バイトはベトナム人、ミャンマー人ばかりで、日本人は彼女を含めてたったの2人だという。しかも店長は韓国人女性。だが、今やこんなケースは珍しくも何ともない。コンビニからレストラン、病院までさまざまな職場で、働く外国人を見掛けないことがない。

 安倍政権は臨時国会に外国人労働者が永住可能になる法案を提出する。多くのメディアが「移民受け入れに舵(かじ)を切った」と報じた。週刊新潮(10月25日号)が早速特集を載せている。「『移民大流入』でどうなるニッポン」の記事である。

 同誌の「どうなる」予測を見てみる。「経済アナリストの森永卓郎氏」が「一橋大学経済研究所所長の小塩隆士教授による試算を持ち出して」解説したもので、①賃金の低下②行政コストの増加③社会保障コストの増加④社会の不安定化―の4点を挙げている。いずれも否定的、悲観的なもので、「移民受け入れ」となれば、新潮でなくとも指摘できる「課題」「問題点」である。

 はっきり言ってもの足りない。移民受け入れがどのような社会をもたらすか、欧州の例を挙げて示してはいるが、それがそのまま日本に当てはまるものではない。欧州とは宗教も民族もさまざまな条件が異なり、先例とするには不適当なのだ。

 「単一民族」でほぼ無宗教の日本社会にイスラムやキリスト教の信仰を持ち、文化背景、生活習慣の異なる移民が入ってきた場合の想定が、日本人には苦手で、それがそのまま記事に反映されている。

◆地域と交わらず生活

 外国人は「忖度(そんたく)」もしなければ、憚(はばか)ったり、弁(わきま)えたり、察したりはしない。いや、できないのだ。異民族、異教徒の間で多言語で暮らすには、はっきり主張し、明確に要求しなければならない。曖昧な微笑と会釈で相手に察しろというのはムリ。日本人から見れば、まるでケンカ腰で主張をぶつけ合いながら日常生活を送っているように見える。そういう隣人に日本は耐え得るのか、という問い掛けが記事には見当たらない。

 群馬県大泉町(日系ブラジル人)や埼玉県西川口(中国人)、東京都西葛西(インド人)などは外国人がまとまって住んでいる地域として知られている。外国語の看板の下に見慣れない食材が並び、小学校のクラスの3分の1が日本語のできない外国人の子弟というような環境だ。

 ここで生じているのは、日本社会になじめないばかりか、生活のルールを守らず、地域社会と交わらずに“コロニー”をつくって、彼ら流儀で生活することで、地域と摩擦、衝突を起こしているということだ。一部には世界中どこへいても「○○タウン」を形成するような民族もいる。

 「郷に入らば郷に従え」と積極的に地域との共生を図って成功している集団もあるにはあるが、それは一部の「高度な人材」で、教養があり洗練された市民意識を持っているから可能なのであって、大部分の労働移民にはそれが期待できない。

 そんな彼らが地区人口の大半を占め、いや応なく自治会やPTAに入らざるを得なくなって、そこで自分流を押し通そうとしてきたらどうだろうか。少数派となった地元日本人は彼らの圧力に抗し得るのか。地域で「絆」を結び、清掃活動などに汗を流そうとするのか、地域創生に参加してくるのか、こうした課題が山積している。「優しい」日本文化が「強い」彼らの文化を感化していけるのかは甚だ心もとない。

◆宗教的課題手付かず

 記事では日本人との衝突や軋轢(あつれき)を指摘する識者のコメントが寄せられている。「欧州在住のジャーナリスト・宮下洋一氏」は、「日本でも“移民”たちが環境になじめず『不良化』してしまい、価値観の異なる日本人と衝突を起こす可能性は少なくない」と懸念を示し、「評論家の呉智英氏」は、「日本人と外国人労働者の間で軋轢が生じる」とし、「彼らに永住権を認めるというなら、参政権だって問題になります」と指摘する。

 「2065年に人口は8808万人」にまで減少すると推計されている。経済規模は縮小し、社会の維持が難しくなってくる。それを安易に移民で補おうとするとき、文化的、宗教的課題が手付かずだ。日本人が本当に「多様性」を受け入れる能力と覚悟があるのか、そういう問い掛けも必要だ。

(岩崎 哲)