佐々淳行氏の“遺言”スパイ防止法制定に触れなかった各紙の訃報記事

◆情報戦の重要性訴え

 初代内閣安全保障室長を務め「ミスター危機管理」と呼ばれた佐々淳行氏がメディアから姿を消されて久しい。ご病気かと案じていたら11日付の各紙に訃報が載った。長年、警察で警備や外事に携わり、あさま山荘事件の指揮でも知られた。誰もが認める危機管理の第一人者だった。危機が深化しているだけに氏の箴言(しんげん)を聞けないのは残念だ。

 訃報記事は、朝日と毎日は社会面1段見出しの短報。産経は1面、社会面で業績をたたえ、12日付の産経抄、「阿比留瑠偉の極言御免」でも氏のエピソードを綴(つづ)っている。本紙と読売は社会面に3段扱い。各紙の危機管理への濃淡が表れたようだ。

 筆者にとって印象深いのは2009年に廃刊された文芸春秋社の月刊「諸君!」誌上に「インテリジェンス・アイ」と題する論評を連載し、情報戦に疎い日本社会に警鐘を乱打し続けたことだ。その中でも記憶に残るのは「なぜスパイ防止法を作らないのか」(06年4月号)。佐々氏は諸葛孔明が予言した「倭の国」の弱点を示し、同法の必要性を訴えていた。

 古来、中国は諜報(ちょうほう)・謀略工作活動の華麗な実績を持つ強敵で、大軍師の諸葛孔明は弟子から「東夷(とうい)・南蛮・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)のうち、東夷の『倭の国』を破る手だて如何(いかん)」と問われたのに対して「倭の国は剽悍(ひょうかん)勇武、正面攻撃をすると恐るべき敵だが、謀りごとをめぐらし、内通者を獲得し、後方から攪乱(かくらん)すると分裂して容易に破ることができる」と答えたと、『三国志』は記している。

◆徒手空拳で悪戦苦闘

 佐々氏によれば、中国の対日工作は政治家や高級官僚、学者、オピニオン・リーダーをまるごと洗脳獲得してしまう、忍者の世界で言うと「上忍」の工作で、役所に深夜侵入して金庫の中の秘密書類を狙うといった「下忍」の工作はあまりしないという。

 情報戦を忍者に譬(たと)えるところは、さすが戦国武将、佐々成政の血筋を思わせるが、氏の戦いは「諜報・謀略・破壊活動の『防諜』任務を、スパイ防止法も諜報謀略・破壊工作防止法もなしで、徒手空拳で戦わされた」と悪戦苦闘。おまけにその足を左派マスコミに引っ張られた。

 1980年に陸上自衛隊の宮永幸久元陸将補が駐日ソ連大使館駐在武官に情報を提供する「コズロフ事件」が発覚した際、防衛庁に出向していて初めて取り締まられる側に立たされ、警視庁と防衛庁の板挟みになって辛い思いをしたという。

 「禍(わざわい)を転じて福となすため、これを好機に『スパイ防止法』を制定しましょう。宮永元陸将補が自衛隊法違反で一年の懲役、直ちに帰国したコズロフ大佐が日本の防衛庁長官や陸上幕僚長ら多数の将官たちを、戦争もせずになぎ倒した功績で少将昇進なんてバカな話がありますか」

 佐々氏は防衛庁、警察庁上層部に強硬に意見具申したが、野党や左派マスコミは「やられた」防衛庁や自衛隊の“首狩り祭り”に狂奔し、「やった」ソ連KGB(国家保安委員会)のスパイ活動を非難する声は不思議なほど聞かれなくなくなり、スパイ防止法の創設など全く無視された、と嘆息している。

◆法案上程潰した朝日

 ちなみにスパイ防止法制定運動は民間から起こり、自民党は86年秋に同法案を国会に上程しようとしたが、共産党や朝日が反対キャンペーンを張り結局、葬られた。朝日で反対の急先鋒(せんぽう)だったのは秦正流氏(元専務、当時は編集顧問)だ。

 ソ連の対日工作責任者イワン・コワレンコ・ソ連共産党国際部副部長(当時)と“最も近い日本人”と呼ばれた人物で、「私たちは敏感に反応しなければならない。早い段階に、潰(つぶ)すべきものは、潰してしまわなければならない」と朝日労組の講演会でぶち上げている(同年10月22日)。

 ソ連は「下忍」が得意だが、「上忍」も抜け目なく使っていた。北朝鮮もそうで、佐々氏は「スパイ防止法が制定されていれば、悲惨な拉致事件も起こらずにすんだ」と悔しがっておられた(「諸君!」02年12月号)。

 スパイ防止法制定は佐々氏の遺言のように思われるが、本紙を含めいずれの記事にも書かれていなかったのは、佐々氏には不本意だったろう。享年87歳。葬儀は今日、東京・南青山の梅窓院観音堂で執り行われる。合掌。

(増 記代司)