小泉訪朝15年、拉致捜査だけでなく報道姿勢の徹底検証必要な読売

◆最初の政府認定拉致

 「小泉訪朝15年 長く残酷な日々に決着を」―産経17日付主張はこう訴える。

 北朝鮮が日本人の拉致を認めた2002年の日朝首脳会談から15年がたったが、政府が認定した拉致被害者17人のうち、帰国したのは5人だけ。拉致の可能性を排除できない特定失踪者を加えると、多数の日本人がいまだ囚われの身だ。

 「拉致は、金正日氏が認めたように、北朝鮮の国家機関による犯罪である。何ら罪のない人々をさらい、自国へ連行し、被害者や家族を絶望のふちに追い込んだ。犯行を認めた後も、肉親の安否を気遣い帰国を願う切なる気持ちに耳を貸そうとせず、担当者が『拉致問題には誰も興味がない』などと言い放つ。これほど理不尽で残酷な仕打ちがあるか」

 国民の思いも同じだろう。拉致事件を扱った記事の中で、目を引いたのは読売の社会面に連載された「奪われた40年」の初回13日付だ。「遅すぎた拉致公表…1977年・石川 事件化せず 続く被害」との見出しで、77年9月に石川県宇出津海岸から拉致された久米豊さん(当時、52歳)を取り上げていたからだ。政府認定の最初の拉致事件だ。

 東京都三鷹市の警備員だった久米さんは金融業を営む在日朝鮮人の男から儲(もう)け話を持ち掛けられ、同海岸に誘い出されて拉致された。男は貿易代表団の一員を装って来日した朝鮮労働党対外情報調査部の幹部、金世鎬容疑者(国際手配)から拉致を指示されていた。

◆当局への無言の圧力

 石川県警は男を逮捕し自宅で押収した無線の乱数表を解読、拉致の目的が戸籍を乗っ取り、日本人に成りすます「背乗(はいの)り」だと突き止め、北朝鮮による国家ぐるみの拉致に迫っていた。ところが、検察当局は久米さんの意思で北朝鮮に渡った可能性を排除できないと難色を示し、拉致(国外移送目的誘拐容疑)での立件を見送り、事件は公表されなかった。

 翌10月に鳥取県で松本京子さん、11月に新潟市で横田めぐみさんが拉致された。「今思えば、あの時、事件を公表して警鐘を鳴らしていれば、その後の拉致事件は防げたかもしれない」と元捜査員は悔やんでいる、と読売は書く。捜査当局に不作為がなかったのか、そんな思いを抱かせる記事だ。

 だが当時、朝日の主導で韓国は「反共独裁国家」の悪玉、北朝鮮は「人民共和国」の善玉とする「言論空間」がつくられていた。それが捜査当局への無言の圧力となっていた。当局に不作為があったとすれば、メディアは“共犯”だ。

 朝日は久米豊さん事件を同年11月に報じたが、「三鷹市役所の警備員 工作船で北朝鮮へ 懐柔?日本人では初 能登半島から密出国」(同10日付)と、懐柔され密出国したとの見方を示し、拉致の可能性について触れていない。「日本人では初」とはいかにも肯定的な扱いだ。北朝鮮性善説に立っていた証しだ。

 当の読売も北朝鮮には甘かった。77年4月、読売の為郷編集局長が訪朝し金日成主席(当時)と会見、それをスクープとして大きく報じた(同4月28日付)。皮肉にも同日付の他紙は、金日成独裁体制に失望し自由な国に住みたいと警視庁公安部に自首した北朝鮮の大物スパイ(人民軍大佐)事件に紙面を割いていた。

 これを読売は小さく伝え、亡命の動機についてもほとんど書かなかった。金日成会見スクープにケチをつけられたくなかったからだろう。だが、韓国政府は為郷氏が金主席を賛美し「遠からず南北統一の歴史的偉業を達成するだろう」と発言したとして、読売ソウル支局の設置許可を取り消し、特派員を国外退去とした。

◆産の拉致報道を黙殺

 保守とされる読売にしてこのありさまだったから、当時の「言論空間」が知れよう。こうして久米豊さん拉致事件は闇に葬られた。拉致の存在を初めて報じたのは産経(80年1月7日付)だが、他紙はそれも黙殺、02年の日朝首脳会談で白日の下にさらされ、ようやく報道するに至った。

 読売には捜査当局のありさまだけでなく、自らも含めてメディアの報道姿勢を徹底検証する責任がある。拉致がそうであるようにメディアの疑惑も進行形なのだから。》

(増 記代司)