選挙制度改革で「一票の平等」にしがみつき「多数者支配」容認する朝日

◆少数者の抑圧に警鐘

 「各人は1人として数えられるべきであって、何人もそれ以上に数えられない」。功利主義の創始者として知られる英国の思想家、ベンサムの言である。彼は原子論的な人間観に立って「最大多数の最大幸福」を唱え、快楽的な幸福の増大を善とした。

 これに対してジョン・スチュアート・ミルは「満足な豚よりも、不満足な人間たれ。満足な愚者であるよりも、不満足なソクラテスたれ」と、快楽主義を排し幸福の質を問うた。「最大多数の最大幸福」の下では多数者が支配し、個性ある少数者が逆に多数者の専制化の脅威にさらされ、抑圧されかねない。そんな警鐘も鳴らした(『自由論』)。19世紀の話である。

 ならば21世紀はどうだろうか。最大3・08倍だった今年7月の参院選をめぐる16件の「1票の格差」訴訟のうち、14件の判決が言い渡され、「違憲状態」の判断が9件で過半数となった(毎日3日付)。「各人は1票として数えられるべきであって、何人もそれ以上に数えられない」というわけだ。が、プロの裁判官でも判断は割れている。

 参院選では人口の少ない隣接2県を一つの選挙区とする「合区」が「鳥取・島根」「徳島・高知」の4県で初めて導入されたが、投票率は島根を除いて過去最低を記録した。「1票の平等」を金科玉条とすれば、「個性ある少数者」(地方)は抑圧されかねない。そんな疑問が沸いてくる。

◆改憲論に踏み込まず

 毎日は「違憲状態」判決を「抜本改革を迫る警告だ」(10月15日付社説)と受け止め、「参院選挙制度改革は格差の観点からだけでなく、衆参両院の役割の見直しとともに考える必要がある。参院が『分権の府』として地方の声を届ける役割を担うことも選択肢の一つだ。参院の意義についても徹底した議論を怠るべきではない」としていた。

 参院のありようは言うまでもなく憲法で規定されている。「徹底した論議」には改憲論議が不可欠だ。「分権の府」にするには、全国知事会が言うように参院の「都道府県代表」化も一案だが、これには「1票の平等」を突き崩す改憲がなければ実現しない。

 ところが、毎日は徹底論議を言いながら、そうした改革論に踏み込まない。憲法公布70年を迎えた3日付社説では「投票価値の平等をめぐり、その場しのぎの制度改正が繰り返される参院の役割はどうあるべきか」と述べたが、残念なことに具体的な提言がなかった。

 ちなみに同社説は「相互依存の関係が進む国際社会にあって、かたくなに日本の憲法だけを絶対視するのは、形を変えた自国第一主義ではないだろうか。尊重しつつも相対化してみることだ」としているから、硬直した護憲主義から踏み出そうとする気配は感じられる。

◆憲法を文字通り解釈

 これに対して、そんな気配を微塵(みじん)も見せないのが朝日である。知事会の参院「都道府県代表」論について「憲法の条文に、国民は『法の下に平等』(14条)であり、国会議員は『全国民を代表する』(43条)と書いてある以上、地方の定数を手厚くする選挙制度は理屈がたたない」と反対している(8月12日付社説)。あくまでも憲法を文字通りに解釈し「1票の平等」にしがみついている。

 憲法公布70周年では2日付で「未完の目標に歩み続ける」、3日付で「何を読み取り、どう生かす」と、2日連続の社説を掲げ、「憲法に指一本触れてはならない、というのではない」(2日付)と断るものの、「改憲を論じる前に、もっと大事なことがある」(3日付)と護憲姿勢を貫く。むろん参院ついては一言もない。

 朝日は与党の「多数者支配」を批判し、少数者の声を聞けとやかましく言ってきたはずだが、「1票の格差」ではあくまでも多数者支配を容認する。どうやら安倍批判のための御都合主義らしい。

 冒頭に紹介したミルは、親交のあったフランスの思想家、トクヴィルの『アメリカにおける民主政治』(1835年)から「多数専制」のヒントを得たという。ミルが懸念したのは個性と教養の欠いた数的多数者としてのプロレタリアート(労働者階級)の無秩序な社会進出だった。朝日読者はプロレタリア好きの朝日によって「満足な豚」にされないよう心すべきだ。

(増 記代司)