米大統領の広島訪問に注文を付け原爆正当論に疑義をぶつける新潮
◆「他に選択肢」と主張
オバマ米大統領が広島を訪問する。人類歴史で初めて唯一原爆を人に対して投下した国の元首がその被爆地を訪れるのだ。この訪問が歴史的画期的なものになることは間違いない。ただし、「謝罪はしない」「原爆投下の決断についても再評価しない」と条件が付けられての訪問となる。
これに対して、大部分のメディアは歓迎の論調だが、ひとり注文を突き付けているのが週刊新潮だ。5月26日号で「『オバマ』が広島でやるべきこと」の記事をトップに掲載した。
同誌はまず、米国の投下正当論に疑義をぶつけた。正当論とは、本土決戦になった場合「米軍100万人」をはじめ双方に多大の犠牲者が生じる。それを回避し、日本を降伏させる「唯一の」選択肢が原爆投下だった、というものだが、同誌は「他に選択肢があった」と主張する。
日本は当時、既に「国体護持」を条件に降伏することが検討されていたが、原爆投下は降伏の決断とはなっておらず、むしろソ連の参戦が大きな影響力を与えた、と「カリフォルニア大学サンタバーバラ校歴史学部の長谷川毅教授(ロシア史)」の見方を載せた。
◆是非は学者に委ねよ
また、降伏しそうなことを暗号解読で知っていたトルーマン米大統領があえて原爆投下という“ダメ押し”をしたのは、戦後ライバルとなるソ連に「原爆の威力を見せ付けなければならなかった」からで、「『軍事』より『政治』的な要請が強かったと言えるのかもしれない」とも分析した。いずれも間違ってはいないだろう。
最近では米国の世論も変化してきている。原爆投下が正当だったとの評価は終戦当時の1945年には85%だったものが、2015年の調査では56%にまで減った。「『正当化』の論理破綻は、当事者のアメリカにおいてですら、認識され始めているワケだ」という。
米国でも修正主義学者やメディアの中に原爆投下の決断を批判的に捉える視点はある。既に1995年にABC放送は「なぜ原爆が投下されたのか」を放送し、日本にポツダム宣言を突き付けるのと原爆投下の決断のタイミングについて、トルーマンに疑問を投げ掛けた。
当時、これを視(み)た韓国の元月刊朝鮮編集長で保守言論界の重鎮・趙甲済(チョガプチェ)氏は、「トルーマンが原爆投下を決定したことの妥当性をいまの見解で評価するのは危険だ。事後にすべての事実が明らかになった状況、すなわち全知全能の神の視点で50年前の決定を判断するのはフェアでない」と述べている。
原爆投下の是非を論じるにあたっては、政治学者や歴史学者にその評価を委ねるべきだろう。国際政治の現実で今あるのは「オバマ広島訪問」である。それがきっかけとなって、日米だけでなく、第2次世界大戦に関わったすべての国で「原爆投下」の意味を考えるきっかけとなることの方が重要だ。
◆「謝れ」では実現せず
週刊新潮は、「謝罪を要求しない国と受け止められる」(京都大学の中西輝政名誉教授)ことへの懸念も紹介したが、「現実的には、謝罪実現のハードルが極めて高いことは否めない」と認めている。その通りだ。「謝罪」だけを求めて外交に失敗した国の例は近くにある。「謝れ」だけではオバマ訪問も実現しなかった。広島に行ってこそ、すべては始まる。同誌が「広島でやるべきこと」として、平和公園、原爆資料館を訪れて、そこにあるものを見るべきだというのは、広島訪問がなければ、そもそも実現すらしないものだ。
長谷川教授は、犠牲者の中に日系米人や米兵の捕虜がいたことが、最近、明らかにされたことを紹介しながら、これが「アメリカに原爆投下正当論を再検討させるきっかけを与えるかもしれない」と述べる。
再選を気にせず任期をわずかに残すだけのオバマ氏が、それらの展示物や原爆ドームを見て、21万人の民間人を殺した原爆投下の現実を直視すれば、心動かされないはずはない。だから、演説の名手として、歴史に残るメッセージを発してしまう可能性もなくはないのである。
(岩崎 哲)










