朝日新聞と中国の深い関係を象徴するような若宮啓文元主筆の客死
◆「闘う社説」手掛ける
朝日で論説主幹や主筆を歴任した若宮啓文氏が日中韓3カ国のシンポジウムに出席するため滞在中だった北京市内のホテルで亡くなった(朝日4月29日付)。享年68歳。突然の訃報だった。
朝日に「アジア共生 挑んだ『闘い』」との評伝が載っている(30日付)。「論説主幹時代(2002年9月~08年3月)は、本人が回想録『闘う社説』で振り返ったように、『闘い』の名にふさわしい論陣を張った」としている。
確かに若宮主幹時代に朝日社説は従来にも増して闘争的になったように思う。安倍晋三首相と故・中川昭一氏がNHKに圧力をかけ『慰安婦』番組を改変したとする捏造(ねつぞう)報道(05年1月12日付)まで飛び出した。
若宮流の「闘う社説」はいささか感情的で、安倍氏のみならず読売や産経など保守紙との溝も広げた。もっとも首相の靖国参拝反対ではライバル紙・読売の渡辺恒雄主筆と歩調を合わせ、06年2月に朝日発行の『論座』で対談し、世間を驚かせた。
一時期、柔軟姿勢の芽を生じさせたこともある。06年から07年に長期シリーズ「新戦略を求めて」を組んだときだ。その中で「戦後の平和主義」から脱し、現代の国際安全保障の世界でも通用する「能動的な平和主義」を新たな理念に据えると示唆した。安倍首相の「積極的平和主義」にも通じる考えで、朝日は変わるか、と期待された。
若宮氏は「はじめから『護憲』を前提にするのではなく、まずは日本のとるべき針路をさまざまな角度から考えてみる。9条の是非はその上で判断しよう。連載シリーズで『新戦略』を考えてきた裏には、そんな意図もあった」と述べていた。
◆中国共産党から祝い
だが、変化の芽を自ら摘み取ってしまった。07年5月3日付で21本に上る社説特集「提言・日本の新戦略」を掲載し結局、護憲に回帰した。東日本大地震後に主筆に就くと(11年5月~13年1月)、反原発姿勢を露(あら)わにした。
その意味でまごうことなく左派ジャーナリストだった。「アジア共生」と言ってもそれは中国と韓国だけの話だ。朝日の評伝にもあるが、日韓ワールドカップ共催論を打ち出した際、竹島について「夢想」と断ったとは言え、韓国への譲渡案すら論じた。
産経の黒田氏は若宮氏の訃報に接し「最近は対韓姿勢に“進化”が見られ、何でもかんでも日本の足を引っ張るような韓国の反日・愛国主義をたしなめる発言が目立った」と回想している(30日付)。
それにしても若宮氏は北京とは縁が深かった。12年には週刊文春に「女・カネ・中国の醜聞」とのスキャンダル記事を書かれた(同5月17日号)。自らの著書の出版記念パーティーを中国外務省の「外郭団体」に北京で開催して祝ってもらい、女性秘書を連れて嬉々として社用で出席した。これは社内規定違反で、内部監査で発覚し若宮氏は費用を全額返済したという。
同業の言論人からは共産党独裁国家の政府機関に自らの言論活動を祝われて喜ぶ感覚が知れない、よほど中国を利する執筆を続けてきたのかといった疑念の声が聞かれた。
ちなみに朝日の中国報道の疑惑の根は深い。1967年に毎日、サンケイなどの中国特派員が文化大革命を中傷したとして国外追放されたが、朝日は免れた。以降、朝日は文革賛美記事を書き続けた。
68年には政治3原則で「報道の自由」を売り渡したと批判された。3原則は日中記者交換で①中国敵視政策をとらない②二つの中国の陰謀に加わらない③日中国交正常化の回復を妨げない―とするもので、朝日はこれに応じ日中国交回復キャンペーンを張った。
◆訃報への談話も様々
黒田氏は「理想に生きたという意味で北京での客死はもって瞑(めい)すべし、かもしれない。韓国に入れ込みながら、酒が飲めず生真面目な人だったので緊張やストレス解消策が足りなかったか」と述べている。
読売の渡辺恒雄氏は「(若宮氏は)ロシアのプーチン首相との記者会見(2012年)で、北方領土問題で『引き分け』との発言を引き出した」とし、その経緯を聞ければ、安倍首相とプーチン大統領の対話の教訓にできたと惜しんでいる(朝日30日付)。若宮氏には北京との“関係”も聞きたかった。合掌。
(増 記代司)





