末期がん患者らが自己の境涯や死について語るサンデー毎日コラム
◆2人に1人ががんに
1960、70年代、行け行けがんがん、元気いっぱいの青・壮年のビジネスマンが闊歩(かっぽ)し、経済の右肩上がりの高度成長を果たした時代は、個人的に行く末や死を考えたり、自分の境涯を見つめ直したりすることはあっても、それが言論、マスコミ媒体の記事に反映するということはあまりなかった。しかし時代は変わった。
超高齢社会で、日本人の2人に1人ががんに罹(かか)る時代になった。がん宣告されて亡くなるまでの間、刻々と近づく死とどう向き合うか――こういった問題提起で、読み物風にまとめられた、しかも患者自身の手になる記事が週刊誌上でよく見られるようになった。
実録、告白ものといった、いかにも深刻ぶったものでなく、当人たちが、読者に対し、皆さんもちょっと考えてみてください、という淡々とした語り口だ。
◆末期がん患者ら回顧
サンデー毎日のサンデー時評は、毎日新聞客員編集委員の岩見隆夫さんのコラムだが、岩見さんが末期がんであることを表明した後は、主に入院先での思いを綴(つづ)っている。10月20日号からは「三病人せとぎわ問答」と題し、岩見さんを含め「長くて半年」「明日でもおかしくない」と言い合う3人(A=岩見さん・78歳・政治ジャーナリスト・肝臓がん、B・75歳・元会社社長・肺がん、C・71歳・元大学教授・心臓病)が、秋の午後、東京・K病院の応接室でつれづれに人生を回顧している。
コラムは「三人に共通しているのは、人生の残り時間にさほどの未練はなく、達観しているらしいこと? そんなわけで、ここはひとつ相寄り、『三病人本音トーク』といこうかと」で始まっている。
①「顔」のテーマではC「ところで、昭和を生きてきた者として、語り残せない顔が一つだけある」B「昭和天皇だろ」C「そう。戦前戦後の余人にはうかがい知れない苦悩の数々を表にはまったくあらわさないで、なぜあんな温顔でいられるのだろうか。われわれはあの温顔にどれだけ救われてきただろうか。昭和を代表する『唯一の顔』として、忘れることはできない」
B「おれもCさんと同じようなことをしゃべろうと思っていたんだ。おれたち昭和世代は忘れようと思っても目に焼きついてる。だけど、平成も二十五年だからなあ。あの顔はなんとしても後世に伝えなければならん」A「二人の意見におれもまったく同感だ。(後略)」と続く。
3人とも、戦後、常に社会の第一線で活躍し、自他共に認める文化・経済活動を担う人たちだった。その人たちが、むしろ談笑し合いながら話し合っているのだが、“この時”をおいてないという胸の内もうかがえ、かえって鬼気迫るものがある。以後、②書評③花④大阪をテーマに回を重ねており、目が離せない(11月5日号は休載)。
東大病院放射線科准教授の中川恵一さんが手掛ける週刊新潮の連載「がんの練習帳」は、9月19日号から「食道がんと闘った55歳のある医師の、亡くなるまでの経過とその心情を日記風に描いて」いる。
「私自身が経験した多くの患者さんの死を下敷きにし」たもので「進行がんと診断されてから死ぬまでの過程」だと断っているが、検査のたびに上がり下がりする数値に一喜一憂する姿は、生死の瀬戸際で、医師の立場がいかにもろいものか、肩書社会に住む我々にも身につまされるものがある。“55歳の日記”に感情移入せざるを得ないリアルな内容だ。
紙媒体だけでなく、一昨年公開されたドキュメンタリー映画「エンディングノート」なども軽妙なタッチだが、かえって衝撃的だ。がんの宣告を受けた一家の父が自らの人生を総括し亡くなるまでの姿を実の娘が撮影しているが、肉親の情が切なく哀しい。死の間際の父親の内面に迫るのは残酷な気もする。
◆「死は生涯の完成」?
近くは江戸後期の生活史などを見ると、庶民生活の中にも死が寄り添っていたというような印象がある。超高齢化社会に入った平成の世でも、こういった文化が形成されていくのだろうか。「死は人生の終末ではない。生涯の完成である」(マルティン・ルター)。こういった外国の警句も、今の日本で違和感なく捉えられるようになった。
(片上晴彦)





