席巻する資本主義の本質「金利」を聖書から読み解いたエコノミスト

◆根底を模索した企画

 「資本主義」の誕生と発展を理論的に裏付けたことでよく知られているマックス・ヴェーバー。社会学者であったヴェーバーは、彼の著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、「西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズム(プロテスタントの一宗派であるカルビン派の考え)における宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化である」と主張した。

 すなわち、プロテスタントを信奉するキリスト教徒が「神の救済と栄光の証」として積み上げた蓄財が、資本の本源的蓄積を促し、それが資本主義社会を産み出す原動力となったという。しかしながら、資本主義経済が極度に成長し、グローバル化した現代社会にあって、貧富の格差拡大という歪みをもたらし、それが国際紛争の火種になっている。果たして、現代資本主義を謳歌(おうか)する先進諸国が目指す利潤獲得が「神の栄光の証」となっているのであろうか。

 週刊エコノミスト6月2日号は、「世界史を動かす聖書と金利」と題して特集を組んだ。“金利”という経済学の基礎に視点を置きながらも、その根底にある神学=聖書との接点を模索しながら現在の資本主義を読み解こうとした同号の企画の意図はどこにあるのであろうか。リードには次のような文言が並ぶ。

 「景気低迷に伴い、各国の中央銀行が量的緩和と利下げを繰り返した結果、マイナス金利が出現した。プラスが当然とされていた金利のマイナスは何を意味するのか」と現状を挙げ、その上で「かつて一神教のユダヤ、キリスト、イスラム教は『聖書』で金利を禁じ、経済社会の発展の中で苦心した。聖書と金利の歴史的関係をひも解くとき、時代の要請で神と人との綱引きの結果、金利水準を定めてきたメカニズムが浮かび上がる」として歴史の中に見る“金利”発生の経緯を検証していく。

◆罪ではなくする方法

 そもそも「資本主義」は西欧が発祥であり、当然「金利」という概念もまた近世によって生み出されたと考える現代人は多いと思われる。しかしながら、金利というシステムは紀元前に既に存在していた。ユダヤ教の聖典とされる聖書(キリスト教では「旧約聖書」と呼ぶ)の中のレビ記25章37節には、「その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない」と明確に金利禁止を記している。

 もちろん、ユダヤ教の聖書を教義の一つに組み入れているイスラム、キリスト教もまた金品の貸し借りに金利を付けることを「禁止」していた。それが、金利容認へと変容していく過程には、「為替手形」の発明があったという指摘は面白い。同号に登場する高階秀爾(たかしなしゅうじ)・大原美術館館長が、「神学上からも金貸しの罪を犯さずに金利を取るための解決法として、メディチ家は為替手形を使うことで教会の掟に背くことなく、実質的に融資の金利を獲得する切り札となった」と説明している。

 金利を禁止していた原始キリスト教やユダヤ教が、その後、それらを信奉する人々および国家によって世界に冠たる金融資本市場を構築するとは皮肉な現象とも言える。尤(もっと)も「金利」に対して同号は、ユダヤ、キリスト、イスラム教の視点だけでなく、仏教の立場からも論じている。要するに「金利」という概念は西洋・中東の専売特許ではない。日本でも江戸時代に使われ、幕府は法外な金利を戒めていたという事実がある。が、西洋流が覇権を握ったと言うことだろう。

◆宗教理解で問題理解

 ところで近年、経済誌が宗教および宗教的事件を取り上げることが多くなってきた。その背景にはIS(イスラミック・ステート)に見られるように、事件の本質を探るには宗教の教義や地理的歴史的経過などを探らなければ理解できない案件が多く出てきたこと。また、国際問題を読み解いていくと、必ずと言っていいほど宗教が絡んでいることが周知されてきた点がある。

 宗教的儀式や慣習に鈍感な日本人は、これまで他国の宗教を積極的に知ることがなかった。グローバル化の中で政府は外国語の習得には力を注いできたが、宗教理解のための学習は皆無に近かった。しかしながら、日々刻々と変わる世界の動きを正確に把握するためにもそれぞれの宗教理解が必要であることを経済誌は教えている。

(湯朝 肇)