安保法案に「戦争法案」など無責任なレッテル貼り弄する朝、毎、東京

◆自衛官のため反対?

 「あらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行う」。ふつうの国なら当たり前の話だが、安倍内閣は1年近い論議を経て、先週ようやく安全保障関連法案を閣議決定し、国会に提出した。

 それだけに護憲派の反対キャンペーンは異様だった。同法案に自民党と公明党が合意すると、朝日は12日付1面トップに「『専守防衛』変質」との見出しを躍らせた。同日付社説は「憲法が定める平和主義を踏み外すもの」と決め付けている。

 さらに法案が閣議決定されると、朝日は「この一線を越えさせるな」と息巻き、毎日は「日米安保条約の改定に匹敵し、専守防衛の本質を変え」ると断じ、東京は「専守防衛の原点に返れ」と叫んでいる(いずれも15日付社説)。3紙はそろって、「危険を背負うのは現場の自衛隊員」(朝日)とか「現場から不安や疑問の声も」(毎日)などと、自衛官の味方面をしている。

 長年にわたって非人間扱いされてきた自衛官にとっては片腹が痛かろう。古庄幸一・元海上幕僚長はその朝日のインタビューに応じ、「世界が『一人前』に見てくれる」と法案を歓迎している(15日付「考論」)。

 氏は、2001年の米同時多発テロ後のアフガン戦争でインド洋の給油活動をした時の護衛艦隊司令官だ。「日本は湾岸戦争ではお金を出すだけだった。インド洋では汗は流したが、朝日新聞に『ガソリンスタンド』などと書かれてみじめな思いをした」と述懐し、さらにこう述べている。

 「何かが起こった時、米軍などと一緒に行動できる。これが任務であることの誇りは、現場の人間でないと分からないだろう。隊員は『これで世界中が一人前と見てくれる』と考える。従来との大きな違いだ。現場を預かった立場からは、やっとここまで来た、というのが正直なところだ」

 自衛官が危険にさらされるとの批判については「隊員はみんな、国のために万一の時は命をかけることを誓っている。そのため訓練をしているし、装備もしている」とし、「他の国がシーレーン(海上交通路)を守る時、『うちは憲法があるから危険なところには行けません』という姿勢でいいのか。…憲法解釈の変更と今回の安保法制がなければ、本当の意味で国や国民を守ることはできないだろう」と述べている。

 果たして反軍思想の朝日に、国を守る自衛官の高邁(こうまい)な精神が通じただろうか。

◆原点だった戦略守勢

 それはさておき、朝日や毎日が金科玉条にする「専守防衛」は国策でもなんでもない。軍事的には専守防衛という用語はそもそも存在しない。戦後日本で作られた政治スローガンにすぎない。

 それも1970年版の防衛白書に初めて登場し「専守防衛の防衛力は、わが国に侵略があった場合、国の固有の権利である自衛権の発動により、戦略守勢に徹し、わが国の独立と平和を守るためのもの」とされた。これがもともとの専守防衛の意味だ。

 ここにある「戦略守勢」は軍事用語で、全般的に守勢であるが部分的な戦術的攻撃は含まれると解釈されている。だから専守防衛が戦略守勢と同義語なら、敵基地攻撃も容認される。

 かつて政府は「侵害の手段としてわが国に対し、誘導弾などによる攻撃が行われた場合、座して自滅を待つというのが憲法の趣旨ではない。誘導弾などの基地を攻撃することは法理的には自衛の範囲内であり、可能である」(1956年2月、鳩山一郎首相答弁)としていた。

 ところがその後、ソ連や中国と通じる社会党や共産党の執拗(しつよう)な追及に屈し、専守防衛が登場した。それも当初は戦略守勢という概念だった。「原点に返れ」(東京)と言うなら、このことこそ言うべきだ。

◆姑息な「専守」に変質

 それがいつの間にか、撃たれるまでも撃てないといった姑息(こそく)な専守防衛に変質した。それを今回、もとに戻す。左翼紙から、とやかく言われる筋合いはない。

 もとより憲法9条を改正し、自衛隊を名実ともに軍とし、集団的自衛権も堂々と行使すべきだが、現行憲法でも自衛力の保持は認められている。その運用は国民の命を守る政治の責任だ。「戦争法案」とか「変質」といった無責任なレッテル貼りにうつつを抜かす新聞に耳を貸すことはない。

(増 記代司)