栃木・小1女児殺害犯逮捕でも見守り防犯に言い掛かりつけた朝日

◆「監視」に書評は真逆

 ちょっと古い話だが、朝日5月4日付書評欄に『自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』(筑摩書房)という本が紹介されていた。筆者は名古屋大学大学院教授の大屋雄裕氏。評者は津田塾大学教授の萱野稔人氏。いずれも哲学専攻の学者だ。

 この書評が印象に残ったのは「監視社会化を積極的に評価」するとの見出しがあったからだ。前日の憲法記念日に護憲派は人権を声高に叫び、防犯カメラにも目くじらを立てていた。特定秘密保護法論議でも朝日から嫌というほど「国家権力による監視社会」批判を聞かされた。その朝日に書評欄とはいえ、「監視社会化を積極的に評価する」とあるのは珍事である。書評は朝日と真逆のことを言っていた。

 ――いまある全国の監視カメラのほとんどは実は政府ではなく民間によって設置されたものだ。位置情報と行動をたえず記録している携帯電話のGPS機能などもほぼすべて民間だ。「現実には私たちは政府以上に他人の行動を監視し、記録しているのである。監視社会の責を国家権力に帰すことはできない」。それよりも監視の強化がもたらしうる可能性を積極的に評価すべきだ。

 なかなか鋭い視点である。弁護士会などは「監視カメラで監視されているということ自体が、監視される人のプライバシー権を侵害する」と主張し、防犯カメラと呼ばずに「監視カメラ」と言い続けている。だが、犯罪の抑止や容疑者逮捕に効力を発揮し始めると、新聞はさすがに防犯カメラと書くようになった。

◆犯罪に能天気な社説

 それでも朝日は難癖をつけたがる。東京都は通学路への防犯カメラの設置を促すため都内の全小学校区に補助金を出すことを決めた。すると4月25日付に「子供を守る カメラは脇役にすぎない」と題する社説を載せた。

 朝日が言うには、防犯カメラの普及は90年代末頃から加速した。当時は犯罪が増える一方で検挙率は落ち、通学路などで子供が襲われる事件も続いた。通学路を見守る活動が広がったが、続けるには苦労も多く「カメラがある方が安心」との意識が広がった。だが、今は検挙率が底を打ち、子供の犯罪被害はこの10年ほどで大きく減った。防犯カメラは人の目を補う道具にすぎない。使い方を誤ればプライバシーを脅かす――。

 何というピント外れの主張だろうか。見守りに苦労は多いが、楽(らく)したいからカメラが広がったわけではなく、抑止とともに容疑者逮捕に役立つからだ。児童を狙う犯罪は繰り返されやすく、早期逮捕は次なる被害者を防ぐ。だから普及してきた。これは他の事件でも同様である。

 それにもかかわらず、検挙率が底を打ち、子供の犯罪被害が減ったから防犯カメラはお役ごめん? 冗談ではない。防犯カメラ設置をはじめ官民の並々ならぬ努力で、犯罪を減らしてきたのだ。

 ところが朝日は栃木の小学1年女児殺害事件の容疑者が逮捕されると、6月5日付社説で「子どもの安全 ほどよい活動探ろう」と、またもや能天気なことを言ってのけた。いわく、「客観的にみて、犯罪は増えていない。防犯活動は、かえって体感不安をあおっている――。そんな指摘もある。総論として『社会の安全は崩れていない』と、冷静な思考を呼びかけることは大切だ」

◆国民の幸福奪う論調

 さらに「(見守りが)『不審者捜し』だと思うと、きっと活動は長続きしない。見慣れない人、ちょっと変わった人。疑心暗鬼に陥り、地域がぎすぎすしがちだ。しかも、目に見える『効果』など、めったにあがらないから手ごたえも感じにくい」などと、子供の見守り活動に言いがかりをつけた。

 朝日が言う「ほどよい活動」を真に受ければ、どんな犯罪に巻き込まれるか知れたものではない。ここでも朝日は抑止力や防衛力をなおざりにしている。折しも大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件から8日で13年がたった。

 同日付の産経抄は当時の取材を振り返り、「凶刃を手に社会の片隅に潜む『悪』をにらむのは、大人たちの役目だ」と自省を込めて記している。これは能天気な朝日も念頭においた言に違いない。

 犯罪者を野放しにし、国民の幸福を奪う朝日的論調に決して耳を傾けてはなるまい。

(増 記代司)