「非武装・中立化」を唱え続ける朝日はプーチン露大統領とうり二つ
主権奪われ自由失う
ウクライナに軍事侵攻したプーチン露大統領の狙いは明白だ。侵攻直前の演説や和平会談で一貫して主張しているのはウクライナの「非武装」と「中立化」だ。ロシアの支配下に入れという意味だ。
ひとたび主権を奪えば、傀儡(かいらい)政権を樹立し秘密警察の目を光らせ、自由も民主も富も全て奪う。そのことをウクライナ国民は身をもって知っているから毅然(きぜん)と戦っている。
これは他人事(ひとごと)ではない。日本国民もまた、終戦直後から今に至る七十有余年、「非武装」(自衛隊解散)「中立化」(日米安保条約破棄)の声にさらされてきた。日本共産党などの左翼勢力、メディアでいえば朝日からである。ウクライナの苦難を目の当たりにする今、このことを想起しておくのも悪くはなかろう。
今日の日本があるのは、「自由陣営」の一員として生きてきたからだ。その起点は終戦後、連合軍の軍事占領からサンフランシスコ講和条約を締結して主権を回復したことによる(1952年4月28日)。
ところが当時、朝日はソ連に同調し「全面講和」(47年8月19日付社説)と「永世中立」(49年4月12日付社説)を唱えていた。講和交渉が山場に差し掛かると、50年3月から翌51年10月までの1年半に実に50本の社説を掲げ、50年5月20日からは3日間にわたる連載社説を掲載し、こう言った。
「非武装中立を保障する国際規約も、この領土内に一国の軍事基地があってはできない相談となろう。日本の中立的地位も、それによって揺らぐであろう」
米軍に出て行けと主張しているのだ。この時スターリンと毛沢東、金日成は韓国への軍事侵略を準備し、朝日社説の1カ月後の6月25日、北朝鮮軍は戦車の車列を組んで軍事境界線を突破、1カ月後には南端の釜山近郊にまで迫った。在日米軍が存在しなければ、朝鮮半島はたちまち共産化され「次は日本列島の赤化」(金日成)が現実となっただろう。
反省の文字なく自賛
だが、朝日に反省の文字はない。創刊120年を迎えた99年1月26日付に「社論を振り返る」の特集を組んだことがあるが、その中で論説主幹の佐柄木俊郎氏(当時)は全面講和論を振り返り「(非武装・中立化の)こうした理想論に立つ主張は、真の平和を望む多くの人々の支持を受けた」と自賛する始末だ。
実際はどうだろう。内閣府の世論調査(52年5月)ではサンフランシスコ講和条約に「不満足」は12%にすぎなかった。そのうち全面講和でないことを理由に不満足とした人は18%、つまり全体の2%程度だ。53年の総選挙で日本共産党が得た得票率は1・9%で、この数字とほぼ一致する。国民のほんの一握りの「ソ連を故郷とする」共産主義者らを朝日は臆面もなく「真の平和を望む」人々と呼んでいるのだ。
またサンフランシスコ講和条約と同時に発効した旧日米安保条約改定いわゆる60年安保にも反対した。岸信介内閣が改定交渉に入ると、58年に中国の陳毅外交部長とソ連のグロムイコ外相が相次いで日本を非難し、「中立」を要求した。これに朝日は呼応し「中ソに対しても無用な疑惑を与えるような改定はしないこと」(59年10月19日付社説)、「改定、米国のため 日本を守る道・中立が最も良い」(60年1月18日付)と主張した。
同年5月に条約が国会で批准されると、同21日付1面トップに「岸退陣と総選挙を要求す」の異例の社説を掲げ闘争を煽(あお)り、6月15日には学生らが国会突入を図り、女子大生死亡の惨事に至った。
軍事か言論かの違い
最近では、スパイを防ぐ特定秘密保護法に「言論弾圧法」、安保の空白を埋める集団的自衛権見直しと安保法制に「戦争法」のレッテルを貼って反対し、自衛隊については違憲呼ばわりし、「非武装・中立化」を唱え続けている。
プーチン氏と朝日は軍事と言論の違いはあっても中身はうり二つなのである。
(増 記代司)