東芝の外部報告書「全体像は不明な点が多い」と指摘した読売社説
◆人事案取り下げ要求
東芝は昨年7月の定時株主総会について、「公正に運営されたものとはいえない」とする外部調査の報告書を公表した。経済産業省が外為法に基づく権限を背景に海外株主に人事案取り下げを働き掛けたとしている。この報告書の内容を各紙一斉に報じ、いずれも経産省、東芝に対し手厳しい。
「東芝・経産省 異常な蜜月」(毎日6月12日付)では、「経産省の関与について、霞が関では『時代遅れ』との見方も出ている。ある経済官庁の幹部は、『まるで(高度成長期の旧通産官僚を描いた経済小説の)『官僚たちの夏』のような話で、現代ではどう考えてもやり過ぎだ。こんなことを続けていては世界市場から見放される』と切り捨てた」と。また日経12日付社説は「東芝と経産省は統治改革の信頼を損ねた」として「政府が民間企業の総会運営に一方的に肩入れするのであれば、日本の企業統治の信頼は根底から揺らぐ」と批判。
なるほど、報告書だけをうのみにすればそうだが、留意すべき一つは、調査は「物言う株主」として知られる外資ファンド「エフィッシモ・キャピタル・マネージメント」が要求し、それに当たった3人の弁護士はエフィッシモが選んだという点。また調査手法はデジタル・フォレンジック調査で、パソコンなどの電子機器から何万通もの電子メールや機密事項の記載されたファイルを復元する方法を使い、人工知能(AI)による評価付けを行ったという。これらを考慮し内容についての精査が必要だ。
例えば、「(東芝は)エフィッシモを排除すべきアクティビストであると決めつけ、改正外為法上の当局の権限を発動させ、エフィッシモの株主提案に対処しようとしていたものと評価できる」(東芝株主総会 弁護士調査報告書の要旨、日経12日付)というのは当たりだろうが、「安全保障上の要請からエフィッシモの株主提案を問題視したと認めることは困難で、改正外為法の本来の趣旨から逸脱するものと評価できる」(同)は果たしてそうか。
読売12日社説 の「報告書は、主にファンド側の視点に基づくものとみられ、全体像は不明な点が多い。経産省と東芝は十分に調査し、疑念を晴らすべきだろう」という主張が妥当だ。
◆無策の政府産業政策
毎日の12日付コラム「余録」で「『日本株式会社』は過去のものと思っていたが、東芝の株主総会に出された人事案をめぐる同社と経済産業省の一体ぶりはその復活を思わせる」と批判している内容にも違和感がある。「日本株式会社」とは1970年代、米国が巨額の対日貿易赤字を脅威に感じ、後に「日本異質論」につながる報告書の中で名付けられたものだが、当時のその「一体ぶり」と、今日の様相は全然違う。
当時、日本ではコンピューターや半導体など、ハイテク産業の発展形態を官民が協力して見定め、情報が密に共有され、産業政策と企業戦略が一つになって実行に移された。急激に産業力を付けてきた日本へのレッテルだった。
ところが日本政府はその後、押し寄せる経済のグローバル化の波に対し、通信部門などで的確な産業政策を提示できないでいるし、企業も取り組むべき具体的な技術を見失っている。70年当時の官民の「一体ぶり」などとっくに見られないのである。
一方、東芝は2015年に不正会計問題が発覚して以来、惨憺(さんたん)たる経営状況で、個人を除く外国法人等に60%超の議決権を保有される始末。この間、企業統治の観点からも、アクティビストの動きを厳しくマークし、その対策を入念に取るべきだった。今回、東芝がお上に泣きつき、経産省が事情を初めて知って、とりあえず荒療治で対応したというのが騒動の大まかな構図だろう。東芝の企業統治のずさんさ、今世紀来の政府の産業政策の無策が背景にある。
◆経済安保優先は当然
一方、産経12日付「株主権利か 経済安保か」の記事で、「『株主の権利』と『国の安全保障』のどちらを優先するのか。いずれも重要な両概念のせめぎ合いが問題をより複雑にしている」とある。だが、株主権利か、経済安保かと問われれば、経済安保を優先すべきだろう。国がなければ企業も成り立たない。
(片上晴彦)