新年の各紙社説が憲法に触れぬ中、骨太の改憲論を説いた産経・石井氏

◆「国家像」を示す必要

 「我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相(あい)承(う)け…」

 中曽根康弘元首相が2005年1月に発表した「世界平和研究所 憲法改正試案」(中曽根試案)の前文の書き出しである。産経の石井聡特別記者は「難局だからこそ『改憲』の意義 『国の基(もとい)』議論尽くす好機だ」と骨太の改憲論を説き、その中で紹介している(9日付「解読」)。記事にはないが、この一文は「天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた」と続く。

 石井氏は内外から迫る国難に「日本人としての一体感、進むべき道をどこに求めるべきか」と問い、それは経済力のみならず、歴史や文化、国民性などを含めて「国の価値」をどこに置き、受け継いでいくかを共有する作業になるとし、こう述べる。

 「(中曽根氏は)当時あった改正論議や各種改正案などについて、法技術的な要素が強すぎ、日本の歴史や伝統、文化が書かれていないと批判し、『現在をいかに国家、民族として生き抜くか』に重きを置いて国家像を示す必要性を指摘していた」

 そういう論議が今、皆無に等しい。自民党の「改憲イメージ案」もご多分に漏れず条文案の小出しで、中曽根氏が懸念した法技術的な要素ばかりに拘泥している。それで国民を改憲へと導けるのか。

 「憲法を改正して守り抜くべき価値がこの国にあり、それはかくなるものだ」といった改正への揺るぎなき決意と理念を持ち、国民の多数の賛同を得ることに確信を持てなければ、改憲派が発議をためらうこともあろう。「(国難を)乗り越える国家観が今年の憲法論議に欠かせない」と、石井氏は訴える。まったくもって同感である。

◆小泉裁断で“骨抜き”

 いったい、いつから改憲の“骨抜き”が始まったのか。振り返ってみると、中曽根試案が発表された直後からだったように思う。05年、中曽根氏は自民党の新憲法起草委員会の前文小委員長に就き、歴史と伝統を盛り込んだ前文素案をまとめたが、同10月、起草委員会が新憲法草案を発表すると、素案の文言は跡形もなく、まったく別物の「無機質な政党官僚の作文」(中曽根氏)にすり替わっていた。

 それで「憲法前文事件」と呼ばれた。骨抜きは小泉純一郎首相(当時)の、いわゆる小泉裁断によるものだった。毎日の特別顧問だった岩見隆夫氏は名物コラム「近聞遠見」で「最長老・中曽根の『怒り』」を綴(つづ)り、次のような「秘話」を紹介している(05年11月19日付)。

 自民党の御意見番といわれた後藤田正晴元副総理が亡くなる(同9月19日)少し前、中曽根氏と面談し、「憲法前文には、聖徳太子17条憲法の『和をもって貴しとなす』をぜひとも入れてほしい」と頼み、中曽根氏が「承知しました」と約束していた。素案では<和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化を作り…>と続け、約束通り<和>を織り込んだ。しかし、草案では全部削られ、一字もなかった。

 岩見氏は、「情緒的な表現はカット、というのが小泉の意を体した事務局側の姿勢だった」とし、<和>という日本古来の伝統文化は「情緒ではなく、理念である」と断じ、「政治だけでなく、日本社会から<和>の文化が抜け落ちていくことに、後藤田は危機感を深めていた。憲法も歴史に学び、聖徳太子の原点に戻れ、という叫びは貴重だ」と記している。

◆重鎮が不在の自民党

 毎日は岩見氏亡き後、護憲一色になった。自民党にも中曽根氏や後藤田氏のような重鎮がいなくなった。そして「改憲の安倍」が総理の座から去り、左派紙はその政治生命を絶とうと躍起だ。産経の石井氏が危機感を抱くのは無理もない。新年は10日を経たが、憲法をテーマに据える社説は産経を含め1紙もない。ここにも多難の年を思わせる。

(増 記代司)