コロナ禍で葬儀も行えない「異常さ」を伝えたBS1スペシャル

◆「死者の権利」認めず

 たまたま見た番組で、二つの重い問い掛けに遭遇した。一つは、NHKBS1のBS1スペシャル「コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~」(23日放送)の中で、哲学者・國分功一郎が紹介したジョルジョ・アガンベン(イタリアの哲学者)の「死者の権利」を認めず「生存以外のいかなる価値も認めない社会というのは一体何なんだろうか」という問い掛けだ。

 新型コロナウイルスによる死者が3万人以上のイタリアと800人超の日本とでは事情が違うだろうが、感染して亡くなると、葬儀も行われずに埋葬される。また、親族でさえ遺体に会うことさえできない。そんな状況をアガンベンは「死者が葬儀の権利を持たない」と表現し、「死者に敬意を払わなくなったとき、社会はどうなってしまうのか」と疑問を呈したのだ。

 死者を蔑(ないがし)ろにすることは、見方を変えれば、命を守ること以上の価値を認めないことだ。防疫の重要性を認めつつも、どれほどの人が死者の葬儀が行えないことを「異常」と思っているのか。社会の健全さのバロメーターであろう。

 かつての日本では、湯灌(ゆかん)も死に装束を整えるのも家族の手で行った。毎日、仏壇の前で手を合わせていた。このような行為は死者と共に生活することの象徴だったが、葬儀を軽く考えることは、死者と共に生活するという意識が消えかかっている象徴であろう。コロナ禍は、死者への敬意をめぐる社会の変化をあぶり出しているのだろう。

◆国民全てが障害者?

 もう一つの重い問い掛けは、東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎がNHK「ニュースウオッチ9」(21日放送)で発した言葉だ。コロナ禍で新しい生活様式への適応が求められている状況について、みんなが「総障害者化」している、と述べたのだ。

 障害者の定義について、熊谷は「体が平均的な人と違うから障害者ではなく、その時々の社会や社会環境にミスマッチしている、体が合っていない人々のこと」だと言う。

 確かに、いわゆる「3密」(密閉、密集、密接)を避けることを求められている状況下で、不便や不自由を感じている人は多い。だから、彼が指摘する障害者の定義を採用すれば、今の日本人を「総障害者」と表現できなくもない。

 出生時に脳性麻痺(まひ)になり、車椅子生活を送る当事者ならではの視点にハッとさせられたし、障害者への差別意識を変えるという観点からは、意味のある問い掛けだが、社会の急激な変化に適応できない人が多いからと言って「総障害者」とすることには違和感を覚えた。

 なぜかというと、コロナ禍の現在、自分がそれほど不便だとは感じていないことが大きい。私のような田舎育ちの人間にとって、東京の3密状態の方が「異常」「非日常」であって、地方のローカル線を思わせるような、乗客の少ない電車に乗ると、逆にホッとする。

 もちろん、コロナ禍は早く終わってほしい。ウイルス感染で亡くなった方やそのご家族のことを思うと、胸が締め付けられる。その一方で、非3密状態の方が「正常」だと受け入れている自分もいる。筆者と同じように感じている人は少なくないのではないか。

◆死後も敬われる人生

 「体が平均的な人」がコロナ禍の社会で感じる不自由さや不便はあっても、それは治療薬やワクチンができるまでと考えれば忍耐できるだろう。地方ではコロナ禍前とあまり変わらない生活を続けている人も多いだろう。なのに、「総障害者」と一括(くく)りにしてしまえば、逆に障害を持つ人が抱える不自由さ、不便さそして差別の問題を見えなくすることにならないだろうか。

 熊谷の発言が、みんなが障害者の立場に立って考えるべきだという趣旨なら、誰もが高齢者になれば体が不自由になるという事実を挙げた方がいいように思う。人は誰でも老いて死ぬという事実を前にしながら、死後も敬意を払ってもらえる人生とは何かを考えながら、社会における自分の役割を地道に歩む人間が増えるなら、アフター・コロナの日本は悲観するものにはならないだろう。(敬称略)

(森田 清策)