マージャン相手は記者ではないと言い張り報道と無関係を装う朝日

◆“事件”暴いた週刊誌

 作家、司馬遼太郎は新聞記者についてこう語っている。

 「私のなかにある新聞記者としての理想像はむかしの記者の多くがそうであったように、職業的な出世をのぞまず、自分の仕事に異常に情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。…無償の功名主義こそ新聞記者という職業人の理想」(随筆『わが小説―梟(ふくろう)の城』)

 産経記者だった司馬が作家として世に送り出したのが『梟の城』で、盗賊・石川五右衛門の史実から想像を膨らませ、忍者の無償の功名主義を綴(つづ)り現代の記者に重ねた。

 私事で恐縮だが、駆け出しの頃、司馬を産経に誘った当時の産経京都支局長、松村収氏に師事した。筆者の拙文を見かねて声を掛けてくださり、下鴨神社に近い氏の自宅に通った。「彼(司馬)は寺社に取材に行くと何日も帰って来ないので往生した。君、新聞記者を目指すのなら、どう真実に迫るかだよ」。その言葉が忘れられない。

 新聞倫理綱領には「記者の任務は真実の追究」とある。産経と朝日の記者らはどんな真実を求めて黒川弘務東京高検検事長と“賭けマージャン”に興じたのか。記者はよくぞ食い込んだ。いや、黒川氏はよくぞ取り込んだ。どっちにしろ、“事件”を暴いたのは週刊誌で、新聞ではない。

 検察庁改正法案をめぐる新聞報道は真実から程遠かった。野党は黒川氏を「安倍政権に近い」「官邸の守護神」と断じ「定年延長→検事総長→安倍検察支配」の構図を描き、新聞とりわけ朝日はそれを煽(あお)った。検察OBの反対意見書は安倍首相を「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕(ちん)は国家である』…を彷彿(ほうふつ)とさせる」と言ったが、それを朝日は喜々として報じた(16日付)。

◆単に検察の人事抗争

 だが、政治家は国民の「選挙選抜」だから時がくればクビにもできる。検事は「能力選抜」で簡単にクビにできない。厚労省の村木厚子局長を「犯罪者」に仕立て上げたような「検察の暴走」を許せば、そっちこそ「絶対王政」だ。安倍首相を「ルイ14世」になぞらえるのは筋違いだ。

 黒川氏が安倍政権に近い官邸の守護神なら、その真実に新聞は迫るべきだが、そんな記事はなかった。辞任後にようやく読売が「検証 黒川氏辞任」(23日付)を書いた。見出しには「検事総長 辞めていれば」(1面)「官邸・法務 すれ違い/検事総長争い 一度は決着」(2面)とある。

 何のことはない検察の人事抗争だ。稲田伸夫検事総長の後釜は黒川氏の東京高検検事長就任でほぼ決まったが、稲田検事総長が任期2年を全うすればその前に定年となる。それで稲田氏に辞任を求めたが拒否。そこから定年延長の閣議決定となった。主導したのは官邸の警察庁出身幹部ら。警察が検察に手を突っ込もうとして反発を食らったか。

 読売記事から浮かんでくるのは官邸・法務の官僚跋扈(ばっこ)で「政治家介入」とは別物だ。安倍首相は蚊帳の外で、いい面の皮だが、長期政権の緩みか、官僚の手の上で泳がされるようでは安倍政権も「いよいよ」の感がする。

◆官僚と癒着し書かず

 こうした背景を読売は黒川氏辞任後の取材で知ったわけではあるまい。以前から他紙も承知していたはずだ。それを書かないのは官僚との壮大な癒着、すなわち「記者クラブ」のぬるま湯に浸っているからではないのか。

 加えて朝日には真実よりもイデオロギー優先、かつ保身の体質が染み込んでいる。賭けマージャンをしたのは元記者の社員で記者でないと言い張るのがそれだ(23日付)。報道と無関係と装っているが、司馬なら笑うだろう。

 ひとたび記者だった者は真実追究の精神から離れられない。ましてや社員にそのアイデンティティーがなければ、新聞は新聞たり得ない。記者と社員を差別されて平然としているようでは朝日人に未来はない。「いよいよ」なのは安倍政権だけでなく朝日もまた、そうである。

(増 記代司)