「一片の落花の影も濃き日かな」(山口青邨)…


 「一片の落花の影も濃き日かな」(山口青邨)。東京地方では、桜の見ごろは過ぎかけているといったところ。花の咲くのを待つ間のどきどきとした気持ちもいいが、散るのを心から惜しむ情緒も悪くはない。

 ふと来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」を思い起こした。主人公の明智光秀の娘の細川ガラシャは、辞世として「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」という和歌を残している。

 基本的に「花」というのは桜を意味する。桜の花のパッと咲き、パッと散る姿は武士の生き方の象徴であり、戦国時代から安土桃山時代を生きたガラシャのこの歌の意味と重なっている。

 日本を代表する花の双璧(そうへき)と言えば、桜と梅ということになるだろうが、桜が日本古来の花であるのに対して、梅は中国からもたらされた外来の花。今では梅は日本の伝統文化に溶け込んでいる。

 俳句には季語があるが、無季の自由律俳句も近現代では詠まれるようになった。その代表的な俳人が種田山頭火と尾崎放哉(ほうさい)である。山頭火には、桜を詠んだ「さくらさくらさくさくらちるさくら」という句がある。「あすはかへらうさくらちるちつてくる」という句もある。

 ところが、放哉には桜の句というのはあまり見掛けない。そのあたりに、同じ放浪の自由律俳句の俳人でも違いがあると言っていい。放哉は「いれものがない両手でうける」などの句で知られ、大正15(1926)年のきょう、亡くなっている。