「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」…
「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」(高浜虚子、昭和25年)。有名な句だが、年が改まる時の感触を見事にとらえている。年は変わった。だが、棒のような何物かが、旧年と新年をしっかり貫いている。
「棒」とは何だろう。棒は一直線で単調、変化に乏しく面白みもない。「棒読み」「棒立ち」といった単語が思い浮かぶ。
「棒」とは時間なのだろう、ととりあえずは考える。年が変わろうが変わるまいが、時間は流れる。「ゆく河の流れ」(『方丈記』)のように、時の流れだけは止まらない。
時間なぞそもそも実在するわけではなく、生活の必要上、人間が勝手につくり出したものだ。「時間は流れているわけではない」との哲学者の説に接したこともある。だが実感としては、時間なるものが河のように、時にゆったりと、稀には急激に流れている。
時間という代物は、野太くいけずうずうしく、頼んだわけでもないのに勝手にやってくる。やってきたかと思えば、たちまち立ち去ってしまう。半面、過ぎ去ることで、耐え難い不幸や苦痛さえも和らげてしまう力を持つ。
虚子の句も「年は変わっても、時間は淡々と流れていますよ」と解釈することもできるし、「時間はいつものように流れているのだろうけれども、去年は去年、今年は今年で、区切りははっきりあるのですよ」と受け止めることも可能だ。何とも微妙にして雄大な句を虚子は残したものだ、と改めて思う。