「蕭條(しょうじょう)として石に日の入…


 「蕭條(しょうじょう)として石に日の入枯野かな」(蕪村)。冬というとこの句を思い出す。寒々とした風景に日差しが石に入るように見えるというのだが、その印象鮮明な情景が「蕭條」という漢字で絵画的に表現されている。

 漢字の持つ特性を十二分に生かした句の多い蕪村は、芭蕉とも一茶とも違った感性を持っていた。正岡子規によって写生の先駆者として評価されたが、やはり画家としての目が大きかったのではないか。

 ものを画家の目でとらえ、言葉に構成していく蕪村は、近代人としての思考を持っていたことは間違いない。ただ、それは子規の言う西洋的なリアリズムの「写生」とは違う気がする。絵画性は、むしろ漢字の特性から来ているとみた方がいいだろう。

 ものの形を表す象形文字が漢字のルーツであることを考えれば理解できる。ただ、「蕭條」という硬いイメージの漢字を柔らかな冬日の表現に使ってリズム感を出しているのは、蕪村の詩人的感性のたまものである。なかなかまねできることではない。

 このような漢字の使い方で日本語の可能性を高めた作家といえば、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介らが思い浮かぶ。特に、芥川の小説は漢字の使い方が効果的だった。芥川も蕪村と同じように印象鮮明な俳句を作っている。

 「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」(芥川)。今年ももう少しで終わる。年の瀬の風が街を覆っている。きょうは平成最後の天皇誕生日である。心からお祝い申し上げたい。