今頃の季節になると「花見ればそのいはれとは…


 今頃の季節になると「花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける」(西行)という歌を思い出す。830年も前に死んだ歌人の作だ。

 一筋縄ではいかない西行でも、桜を見てまずは「美しい」と思うだろう。が、そのうちに「桜を見ている自分」のことを考え始める。

 桜は美しいが、自分の心の中は苦しい。理由が分かればいいが、それが分からない。分からなさは死ぬまで続くだろう。だから歌を詠むしかない。苦しさの極みから生まれた作品だから、今でも記憶され続けているのだろう。

 加えて、相手は桜だから「美しい」とか「見事」だけでは言い尽くせない何かがありそうだ。美しさの裏には「禍々(まがまが)しさ」がある。桜そのものが西行を苦しめた面はあったはずだ。

 西行には「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」という歌もある。夢の中の桜であっても、目覚めた後、胸騒ぎがする。実際の桜よりも、夢で見た桜の方が心に残ることもある。「桜は美しい」とばかりは言い切れない。

 西行の深みはともかく、今のわれわれも、実は心のどこかで「美しさ」と「心の苦しさ」を共に感じながら桜を見ているのだろう。例えば桜が散るのを見て、ただ「桜は散るのがいい」と言うのは少し単純ではないだろうか。「咲く」と「散る」が一体となった姿をわれわれは見てきたし、今後もそういうふうに桜を見ていくことになるだろうなどとも考える。