歌舞伎座五月興行の恒例の催し「團菊祭」が…


 歌舞伎座五月興行の恒例の催し「團菊祭」が行われている。相変わらずの賑(にぎ)わいだ。昼の部の「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)」は、平三役を演じる九代目坂東彦三郎の襲名披露という趣向だ。

 平家方の武将の平三や大庭三郎の前に、ある老父とその娘が家伝来の刀を売りに現れる。刀の切れ味を疑う大庭、それに対し金が入り用の老父は2人の人間を重ねて切る「二つ胴」で切れ味を試すよう求め、切られる2人の内の一人に志願する。

 一方、平三は、その名刀を見て親子の素性の凡ならざることを感じ、試し切りの場で一計を案じる。その後、刀を買い求めた平三は、源氏方だと明かす親子との因縁に驚きを隠さない。見せ場は、鑑定を求められた平三が刀を検(あらた)めるところ。その大仰な仕草の有り様に、ドラマ全体の命が懸かっている。

 哲学者の和辻哲郎は歌舞伎の舞台について「想像力によって作り上げられた世界には、一種独特な、不思議な印象がある。(中略)そういう不思議な印象は一体どこから生じたのか」と書いている。

 そして「それらはもと浄瑠璃で語られるに伴って人形が演じたのであって、歌舞伎芝居ではなかったということである」(以上、和辻著『歌舞伎と操り浄瑠璃』)と。

 生命を吹き込まれた人形の所作を、今度は役者が真似(まね)、演じる。そして現実より強い存在感を持ったドラマに再生されたのが歌舞伎だというのである。現実と虚構の間を楽しむ日本人の心がここにある。