「我々(小説家)は(略)、夢を見ていても…
「我々(小説家)は(略)、夢を見ていてもそれが仕事でないとは言えない」と、村松友視氏の長編小説『永仁の壺』の中で小説家の男が言っている。この言葉は、夢という不思議な現象についての真実の一面を物語っている。
芸術の起源をめぐっては諸説があるが、夢が関わっていると考える点では共通している。夢の自由奔放さが芸術家の想像をさらに膨らませるのだろう。
夢は錯乱と似ている、との説がある(J・アラン・ホブソン著『夢に迷う脳』)。寝ている間に起こる軽度の精神錯乱が夢だ、という。目覚めれば「夢か!?」で現実に帰る。夢と現実の境界は明確だ。
現実世界に存在するあらゆる物事の関係性が、夢の中ではゆるくなる。自由と言えば自由、デタラメと言えばデタラメ。夢の中ではそのデタラメさを、目覚めている時の現実以上に強いリアリティーを持ったものと受け止める。
現実よりも夢の方が内容は濃厚だ。夢は現実の論理によってではなく、イメージの論理で進行する(川嵜克哲(かわさきよしあき)著『夢の分析』)とのことだから、ウソを書くことが許される小説や物語の作者にとって、夢は特に効能があると言えよう。
夢を描いた作品としては夏目漱石の『夢十夜』がよく知られているが、内容を分析した専門家は、漱石は実際に夢を見た上でこの作品を書いた、と結論付けている(渡辺恒夫著『夢の現象学・入門』)。時に夢は、傑作の題材ともなることが了解できる。夢、恐るべし。