亡くなった演出家の蜷川幸雄氏は「他者との…
亡くなった演出家の蜷川幸雄氏は「他者とのコミュニケーションが生涯のテーマだった」と語っていた。人と交わることが苦手で、苦労もしたようだ。
俳優を志したが、女優太地喜和子の助言で辞めた。演劇には関わっていたいので、劇作家という選択もある中、演出家になった。
俳優が仮面をつけて演技するのはいけない、と言うのも、仮面が役者と観客とのコミュニケーションを遮断するからだ。安部公房作・演出の舞台「鞄」を見て、俳優が鞄になるのに強く反対した。鞄をやるために俳優をやっているのではない、というのが理由だ。
稽古中灰皿を投げつけるのも、彼流の手荒なコミュニケーション手段だったのだろう。分かり合っている俳優に投げるので、誰彼なくそうしているわけではない、とも語っている。
新劇、アングラ(アンダーグラウンド)を経て、商業演劇に進出した当時、アングラ仲間たちから強い批判を浴びた。が、新劇もアングラも、演者、観客共に知識人が主体だったことに飽き足りない思いをしていた。「無頼が苦手」というのも、演劇人に多い人間同士の直接的接触を好まなかったのも、特有の個性だった。
1960~70年代のシェイクスピア劇の教養主義にも強い反発を示した。批評家ではないので、自身で教養主義でないシェイクスピアを演出しなければならなかった。それが世界的規模で大成功を収めたことは、誰もが知る通りだ。