『新史太閤記』などで豊臣秀吉を描いた…
『新史太閤記』などで豊臣秀吉を描いた作家・司馬遼太郎氏は、秀吉を「戦争を土木工事に変えた」と評した。墨俣の一夜城、高松城の水攻めで12日間で築いた長大な堤防、それらの集大成としての大坂城の築城。
その秀吉が、子飼いの戦国武将・脇坂安治に宛てた書状33通が見つかり、東京大学史料編纂所が修復・解読した。発表されたその内容は、司馬氏の秀吉評を思い出させる。
書状で秀吉は、京都御所建設の材木を運ぶ役割だった安治に対し、「材木を60本」「早く40本出せ」と細かく指示。材木運搬の任務よりも北陸攻めに加わることを望む安治を「曲事たるべく候(けしからん)」などと叱責している。
御所の建設は、もちろん戦のための土木工事とは異なるが、政治的な意味の大きいものである。一方の安治は賤ヶ岳の合戦(1583年)で活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられる荒武者。戦場で手柄を立てることに武士の面目を置く安治と、それとは次元の違う戦略家・秀吉の対照が面白い。
同編纂所の村井祐樹助教は、「秀吉の細かい性格も読み取れる」と言う。こういう緻密な計算と戦略があったからこそ、秀吉は天下を統一することができた。
しかし、その秀吉がなぜ、無謀な朝鮮出兵を行ったのか疑問が膨らむ。兵站や補給を重視する思想が、昭和の日本の軍人に欠落してしまったと、司馬氏がどこかで書いていたこともあわせて思い出す。