「隠居」という言葉は最近ではあまり使われ…


 「隠居」という言葉は最近ではあまり使われないが、江戸時代初期の殿様にとっては名実ともに実態があった。1621年、細川忠興が隠居した。後継は忠利。2代将軍秀忠の時代だ。

 九州の小倉から中津へ移転して数カ月たった忠興は、忠利に「家臣の誰も俺のところへ来ない。お前が来るなと命じているのか、不審だ」と手紙を出した。

 家臣が来ないのは息子の意向ではないか?との邪推が含まれているのが面白い。忠利は「家臣たちには自由に中津へ行ってよいと命じています。誰が伺候し、誰が伺候しなかったか、調べてみます」と返答した。

 結果、中津へ行く家臣が多くなった。閉口した忠興は「藩にとっても面倒だろうから、今後無用の訪問は不要」と忠利に書き送った。その後忠利に「余計なことを言って後悔している」と伝えた。

 隠居は生涯一度の体験だから、名将と言われた忠興も様子が分からなかったのだろう。その混乱ぶりを我々が生き生きと感じ取ることができるのは、手紙が残っているからだ。

 親子の人間臭いやりとりは、山本博文著『江戸城の宮廷政治』(講談社学術文庫)に紹介されている。計3000通の手紙が残っている事実に加え、それを解読する営みがあって初めて藩主父子の人間模様が浮かび上がる。その忠興は、1563年のきょうが生誕の日に当たる。妻(忠利の母)細川ガラシャは明智光秀の娘。隠居の24年後、82歳の長寿を全うした。