「団栗を掃きこぼし行く帚かな」(高浜虚子)…


 「団栗を掃きこぼし行く帚かな」(高浜虚子)。秋らしいやわらかな日差しの中、舗道を歩いていると、靴に何か異物がつぶされていく。見ると、ドングリだった。風に吹き飛ばされたのだろう、辺り一面に散らばっている。

 ふと懐かしい気分になって、数個を拾ってみた。気流子の子供時代、ドングリは遊び道具であり、軸をつけてコマにして遊んだ記憶がある。と言っても、高度成長期で他の遊びやレジャーが多くあったので、次第にドングリで遊ぶことは希になったが……。

 食べるにはアク抜きや渋抜きをしなければならない。とはいえ、その労さえいとわなければ食糧になったので、飢饉の時や近現代でも第2次世界大戦後の食糧難の時には盛んに利用されたという。

 「団栗」という漢字は当て字らしいが、丸い形やクリのように食用にできる性質がよく表されている。稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』では「櫟、楢、柏など落葉樹の実の総称で、とくに櫟の実をいうことが多い」となっている。同じドングリでも、種類によっては渋みがあまりないものもあるらしい。

 「ポケットに手を入れ冬を確むる」(鈴木すすむ)。きょうから11月になる。今年もあと2カ月。気が早いかもしれないが、そろそろ冬支度のことを考えなければならない。

 風の冷たさに顔をしかめていると、ポケットの中のドングリがかすかにこすれ合う。秋の終わりはどこか心に身に染みるものがある。