「あれ持って来て」。有名鮨店の主人が若手の…


 「あれ持って来て」。有名鮨店の主人が若手の職人に命令する。職人は不得要領のまま何かを手にして来る。「あれって何ですか?」と聞き返せるような雰囲気は全くない。主人は「違う」とだけ言って「あれ」が何であるかは教えない。3度目ぐらいでやっと目的の物を持って来たらしく、事は済んだ。

 高級日本料理店の主人が、「あいさつがない」との理由で若手職人に重傷を負わせたとの報道に接して、鮨店の一件を思い出した。

 学校、スポーツ界、軍隊などもそうだが、一般に料理の世界では上下関係が厳しい。減ってきてはいるようだが、時には暴力も発生する。この鮨店の場合でも、必要な物の名前を言えばいいのだが、言わない。

 「今何が必要かを自分で考えろ」ということなのだろうが、「イヤなものを見てしまった」という印象だけが残った。客の前で恥をかかせることも教育の一つだ、と主人が考えていた可能性もある。しかし、そんな回りくどいことをしなくても教育は可能だろう。

 北大路魯山人の特異な個性は、伝説となっている。実際以上に伝えられている傾向さえあるが、彼が弟子の育成を苦手としていたであろうことは、天才特有の現象として推察できる。

 この種の理不尽や不合理は教育上、それほど効果的ではない、と今では考えられている。今後はもっと少なくなっていくだろう。なお、件の鮨店は、その後銀座への進出を果たした。