「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」(能村登四郎)…


 「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」(能村登四郎)。俳誌「沖」の名はこの名句に由来する。創刊されたのは1970年で、主宰の能村登四郎は59歳。遅咲きのスターだったが30年間、主宰を続けた。

 その後、2001年5月に三男の能村研三さんが主宰を引き継ぎ、今年で15年目。創刊45周年記念祝賀会が先日、東京・浅草のホテルで開かれた。記念吟行句会も行われ、華やかで充実した2日間だった。

 会場の一角に「沖の歩み展」として、水原秋櫻子、石田波郷、能村登四郎はじめ、その歩みを彩った俳人たちの掛け軸や色紙、短冊が展示されていた。研三さんの掛け軸には「春の暮老人と逢ふそれが父」の句があった。

 国際俳句交流協会会長で「天為」主宰の有馬朗人さんは、かつて米国で研究生活を送っていた時、「枯野の沖」の句を思い出しながら、「日本に帰ったら俳句をやりたいと思っていた」と回顧。

 現代俳句協会会長の宮坂静生さんは「沖」を航空母艦にたとえ、「たくさんの飛行機を甲板から飛び去らせたが、母艦はゆうゆうと航海していた」と言う。「沖」から俳誌を起こした人は12人にも上る。

 研三さんは創刊の時を「会員88名から始まり、末広がりの数字で能村登四郎、林翔が喜んだ」と回想し、「先師を知らない世代が増えているが、たくさんの人が集ってきているのは嬉しい」と述べて、次の目標に向かう「沖ルネッサンス」について語った。