恒例の「国語に関する世論調査」(文化庁)で…


 恒例の「国語に関する世論調査」(文化庁)で、「わたし的には……と思う」という用法が、若者だけでなく各世代で共通して増えていることが分かった。

 本来であれば「わたしは……と思う」と言えばすむ話。「わたし」にわざわざ「的」を追加するのは、人間関係を過度に気にして断定的な物言いを避ける傾向が強まっているため、と文化庁は分析しているが同感だ。

 「……的」は、昔は知識人がしばしば使うものだった。「抽象的」「人間的」「本質的」……。しかし今では、自身の立ち位置を曖昧にして責任を回避するためのものとなった。

 「わたし的」のような用法を婉曲(えんきょく)話法という。昔は「韜晦(とうかい)」などともいって、あまり誉められたものではなかった。こうした言い方は、現代人の「空気」(山本七平)の読み過ぎ傾向を示している。「一体どこまで空気を読めば気がすむのだろう」とも思うが、いずれ飽きがくるまでその流れは止まることはないのだろう。

 最近読んだ本の中に「歴史の必然とも言うべきものとも言えるように思う」という文章があった。書き写しの間違いではない。「とも」という語が2カ所、加えて「言うべき」と「言える」の混在。

 「歴史の必然と言える」で十分なのだが、ひどく回りくどい悪文になっている。このように言い切ることをはばからせる「空気」がその学者の周囲に働いていたのかどうか、何とも奇怪な文章だ。