「男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て…


 「男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とは米国大統領だったリンカーンの言葉とされる。その伝でいくと、この人はやや武骨な高僧を思わせるしっかりした面構えと言えよう。ただし40歳過ぎのそれではなく、20代30代のころの顔である.

若くして老成し、病苦と闘う中で、与謝蕪村の再評価や俳句・短歌の近代化、新体詩、随筆、小説、評論など多彩な創作活動で日本の近代文学に大きな足跡を残した35歳の生涯。きょうは正岡子規の忌日「糸瓜忌」「獺祭忌」である.

昨日、子規の終焉の住まい「子規庵」(東京都台東区根岸2)に足を運んだ。JR山手線・鶯谷駅を降りて歩いて5分ほど、路地を抜けるとお目当ての平屋に.

子規が元「侍長屋」のここに移り住んだのは27歳(明治27年)の時で、すでに肺結核を患っていた。<月照す上野の森を見つつあれば家ゆるがして汽車行き返る>とうたった上野の山は見えないが、屋内と庭は当時を感じさせてくれる.

執筆机が置かれた6畳間の病床から眺めた棚からぶら下がるヘチマが子規を慰め元気づけたのだろう。<首あげて折々見るや庭の萩>と詠んだ、その先の庭には松などの木の間に桔梗、葉鶏頭、彼岸花、おしろい花、秋海棠、萩など秋の花がつつましやかに咲いていた.

子規庵では顔写真、自画像、塑像、画家・浅井忠のスケッチ画などで子規の顔の変遷を追う特別展「子規の顔 その2」を開催中。30日まで。