作家安部公房が亡くなって、今年で20年。安部の愛人だった女優の山口果林さんが書いた『安部公房とわたし』（講談社）を読むと、安部をめぐる興味深いエピソードが記録されている。

　めったに他人の作品をほめない安部が、芥川賞作家丸山健二氏の新作にひどく感銘して、電話で伝えることになった。番号がわからないので、出版社に教えてもらって電話したのだが、丸山氏の反応は「誰ですか、あなた？」の一言だった。

　当時安部は、毎年のようにノーベル賞の有力候補と目されていた。今の村上春樹氏のようなものだ。当人が名乗った上での丸山氏の対応に、さすがの安部もすっかり気分を害してしまった、という話だ。

　丸山氏は長野県の大町市にこもって、現在に至るまで文壇づきあいを絶っている「孤高の作家」だ。「天下の安部」のほめ言葉も、余計なことだったのだろう。

　晩年安部は、前立腺ガンに罹っていたが、そのことを世間に知られるのをひどく嫌った。狭い文壇のこと、作家仲間で病気の噂が広まった。それを知った安部は、なぜか噂の発信元が日本文学者のドナルド・キーン氏と信じたらしく、電話で誰かにその事実を詰問する場面に著者は出会ったことがあった。

　結局、発信元は別人と判明したが、安部の「弱者と見られることへの恐れ」を著者は指摘している。全編にわたって、文学史に残る作家を見つめる著者の観察眼は、なかなか鋭いものだ。