嘉永7(1854)年3月27日夜、伊豆の下田で…
嘉永7(1854)年3月27日夜、伊豆の下田で吉田松陰は、弟子の金子重之輔とともに2度目の来訪をしていたペリー艦隊に乗り込もうとして拒絶された。2人は奉行所に自首し、その後松陰は長州藩萩の野山獄、重之輔は岩倉獄に入れられた。この時、松陰は24歳。
翌年暮れに出獄し、主宰した松下村塾が幾多の人材を輩出したことは周知の事実だ。が、単なる教師に留まらないのがこの人物で、安政5(1858)年11月に老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)の暗殺計画を藩当局に提案する。驚いた藩は松陰を再度同じ牢に投獄した。
当時は日米通商条約締結問題で緊迫していて、松陰は「攘夷」の立場から条約に反対していた。このため、大老井伊直弼の部下として締結に向けて動いていた間部老中とは敵対関係にあった。
井伊大老による安政の大獄が進行する安政6年4月、幕府は松陰を江戸へ召喚。7月に取り調べを行ったが、松陰は聞かれもしないのに暗殺計画を自供した。
松陰は幕府がこの計画を知っていると思っていた。しかし、実は知らなかったとも言われる。10月27日に死罪が申し渡され、即日執行された。
死を予感した中で書き始められ、判決前日の夕方に書き終わった遺書「留魂録」の冒頭には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置(とどめおか)まし大和魂」の歌が記されている。魂を留めておくから『留魂録』なのだ。ペリー艦隊乗り込み事件からわずか5年半後のことだった。