「三月の雪の阿蘇とは知らで来し」(岡崎多恵子)…
「三月の雪の阿蘇とは知らで来し」(岡崎多恵子)。きょうから3月になる。3月の声を聞くと、それだけで春の気配を感じる。桃や桜の開花の便りが届くのもこの頃である。
稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』でも「『暑さ寒さも彼岸まで』というように、寒さと暖かさとの交替する時期で、南国では菜の花や桃の花に蝶が舞い、北国ではなお雪深いが、雪の下にはものの芽もあらわれ始める」とある。
この解説の言葉を読むだけでも、春の風が吹いてくるような感じがする。知人から梅の花が満開という話を聞いたので、外出してみたが、梅はあまり見かけなかった。
日中の陽射しが強かったので薄着をしていくと、夕方から夜はまだ少し寒い。たちまち音を上げてしまった。家庭菜園をやっている知人によれば、春が来ているのは土から分かる。霜柱もなくなって土は春になっている、と。
自然にじかに触れていると、そんなことまで分かるというのは興味深い。現在は、スーパーなどで四季の食材は旬でなくても一年中手に入れることができる。しかし、それは皮膚感覚の伝統的な季節感が失われてしまうことを意味している。
その点、毎年春に桜の花見を楽しめるのは格別なものがある。たとえ、桜が人工的に栽培されて一年中見られるとしても、あまり感動はないのではないか。つぼみがほころび、満開となっていく風情は、やはり春のものである。