「春寒やかはりゆく世の神仕へ」(富岡九江)…


 「春寒やかはりゆく世の神仕へ」(富岡九江)。「春寒」については、歳時記に「春が立って後の寒さをいう。余寒というのと大体同じであるが、言葉から受ける感じが自ら違う」(稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』)とある。

 同じような現象を「春寒」と言ったり、「余寒」と表現したりするのはなぜか。ちなみに「余寒」の説明は「春になってからの寒さであるが、明けた寒の寒さがまだ尾を引いて残っている感じである。残る寒さ」(同)となっている。

 もともと日本語には微妙な陰翳があると言ってよい。要するに、言霊ということである。意味は同じでも語感が違えば、その言霊によって変わってくる。

 「春寒」は「春」に、「余寒」は「寒」に力点を置いており、同じ寒さでも受ける印象が違う。このあたりは、外国人には理解し難い感覚ではないだろうか。

 しかし、現代の日本人は文明化された環境の中で生活し、暖房器具やクーラーなどで寒暖を調節するので、こうしたニュアンスをもはや感じ取れなくなっているかもしれない。いいか悪いかは別として、季語の持つ微妙な肌合いは、もはや実際の感覚というよりも言葉だけのものになっているのではないか。

 異説もあるが、正平5(1350)年のきょうは「つれづれなるまゝ」に始まる『徒然草』の作者吉田兼好の忌日。『徒然草』には、言霊がまだ生きていた時代の空気が生き生きと感じられる。