「隣る家も其の隣る家も柿たわゝ」(高浜虚子)…


 「隣る家も其の隣る家も柿たわゝ」(高浜虚子)。まだ実際に柿の実がたわわになっているのを見たわけではない。が、そろそろその風景が目に浮かんでくる季節になる。リンゴやブドウ、ミカンなどの秋の味覚のうちで、柿ほどなじみの光景はない。

 リンゴやブドウなどは、栽培している畑でないと、なかなかお目にかかれない。だが、柿は昔はどの家の庭でも植えられていた。むしろ、温暖な地方産のミカンの方が珍しい果物でご馳走だった。

 柿の場合、渋柿に遭遇することもままあり、その渋さがいつまでも口の中に残った記憶がある。「隣の客はよく柿食う客だ」という早口言葉があるが、柿にはどこか庶民的なイメージがある。

 柿を愛した文人に、俳句や短歌に革新をもたらした正岡子規がいる。子規の有名な句に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」があるが、ほかに「三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ」もある。

 「かぶりつく熟柿や髯を汚しけり」(子規)。子規の晩年の作『仰臥漫録』には、毎日の食事の記録が残されている。それを読むと食べ物への異常なほどの執着が感じられる。柿のことも書いているが、それよりも牛乳やマグロの刺し身、菓子パン、せんべいなど病人とは思えないほどの食事量だ。

 それだけ生きることや、俳句、短歌などの創作への意欲が旺盛だったのだろう。その子規が愛した柿の木だが、都会では少なくなっているようで残念である。