「現代は確かに狂った時代である。異常な…


 「現代は確かに狂った時代である。異常なもの、反常識の世界に対する喜び、否定的な、破壊的な要素にのみひきつけられる心、すべてがアブノーマルであり、そのアブノーマリティは限度を知らない」。

 歴史学者の故木間瀬精三が『死の舞踏』(中公新書、昭和49年)の冒頭で書いた言葉だ。近代市民社会はもう終わりに来ていて「新しいものに場所を空けなければならない」と主張した。

 その頃、学生だった気流子は、大学で近代社会をつくった社会科学を学んでいたが、この学問はどこかおかしいと考えるようになった。問題は前提とするその人間観にあって、そこに錯誤があると思われた。

 同じように考える人はいて、「社会科学は、二十一世紀には通用しなくなるように思われる」と語るのは、国際政治学者で『国民の文明史』の著者、中西輝政さんだ。社会科学は自然科学の権威を借りる形で「歴史を虐待」してきたという。

 社会の問題は「今の関心」から絞られ、解決法はごく狭い歴史の視野から見いだそうとしてきた。その価値観はすでに学問自体の中に内包されていて、その枠内で目的も設定され、議論がなされる。

 近代化は世界に広がったが、今や地球環境問題や各地の紛争に見られるように、その文明的価値観は通用しなくなっているという。だから中西さんは、社会科学の前提こそ見直されなければならないと主張する。日本学術会議が抱えているのはこうした問題なのだ。