『遠野物語』(1910年)は、厳密に言えば…
『遠野物語』(1910年)は、厳密に言えば私の著書ということはできない、と柳田国男が書いている。110年前に刊行された『遠野物語』の著者と言えば柳田に決まっているとも思うのだが、話の提供者である佐々木喜善(きぜん)がいなければ、この名著が成立しなかったことだけは間違いない。
遠野の人である喜善は柳田より10歳ほど若い。喜善の故郷である遠野は岩手県内の盆地だが、東の太平洋岸との交易が盛んな土地でもあった。
特に、喜善の出身地である土淵村(現遠野市)は、すぐ前を街道が走っていて、40㌔ほど東の沿岸部との交易に従事する人々の交通の場所でもあった。だが馬による交易は、物資だけではなく、情報も伝える。
喜善の独特の感受性に加えて、彼の育った場所が「外」に向かって開かれていて、情報の行き交う場所だったことが、この作品に伝えられる「話」や「物語」の豊かさの源泉となっている。
近所には話を好む人々も多かった。成長する中で自然に身に付いた話だけではなく、喜善は話をよく知る人々に進んで取材して、それを記憶し、記録した。それらがこの物語集のべースとなった。
喜善と柳田のふとした出会いから『遠野物語』が生まれ、結果として日本民俗学が誕生したのだから、喜善の果たした役割は大きかった。彼は1933年9月29日、仙台で窮死した。享年48は、当時としても若い。柳田が戦後の62年、88歳で亡くなったのとは対照的だ。