「つれづれなるままに」が『徒然草』の冒頭…
「つれづれなるままに」が『徒然草』の冒頭部分だ。これは「序段」で、その次が「第1段」。第243段まで続く。「つれづれ」が問題だ。通常は「退屈」と訳される。辞書にもそう書いてある。それで間違いはないのだが、それでは不十分という異論もある。
フランス文学者、杉本秀太郎(2015年没)の著書『「徒然草」を読む』(講談社文芸文庫/08年)がその一例だ。つれづれは単に退屈なのではなく、人間を往生させるほどにも厄介な、扱いにくい生き物なのだと杉本は言う。
退屈と解釈してそれで終わりというのではなく、もっと厄介な代物がつれづれだ。だから「あやしうこそものぐるほしけれ」なのだ。狂気と紙一重の状態がつれづれだ。
第75段の「つれづれわぶる人」も同じ。「退屈が辛い」というだけではなく、つれづれに対して乳飲み子がむずかるような苦痛を感じとることが「わぶる」なのだとも言う。
「辛い」を否定するわけではないが、どういう種類の辛さなのかをもっと見極めてみれば、「赤ちゃんのむずかり」のような生理的・肉体的な辛さだと杉本は解釈する。
単に、退屈だけでは『徒然草』の作品世界は成立しない。退屈の段階で思考停止してしまえば『徒然草』全体も「退屈にまつわるエッセー」で終わってしまう。それではもったいないし、そのような作品が700年以上も残ってきた理由の説明にもならないと杉本は言いたかったのだろう。