新型コロナウイルスの感染拡大で書店も休業…


 新型コロナウイルスの感染拡大で書店も休業になってしまったので、手持ちの本を読むしかなくなった。で、去年新刊で買った『小林秀雄江藤淳全対話』(中公文庫)を読み始めたらこれが面白い。

 対話と言っても、小林と江藤の年齢差は30歳。小林の話を江藤が聞く形になるのは仕方がない。中で印象に残ったのは偶然の話。「偶然を歴史家は取り除けようとするが、偶然の中にも必然と同じように大事なものがある」と小林は言う(「歴史と文学」1967年)。

 偶然はとかく見えにくいから、歴史家(歴史学者)は敬遠する。そのことが歴史を貧しいものにしているというのが小林の言い分だ。例えば本能寺の変(1582年)。明智光秀は織田信長だけではなく、後継者の信忠も同時に討つ必要がある。同じ時に、京都の1㌔程度しか離れていない場所に信長父子がいるのは、光秀からすれば偶然の幸運だ。

 「今」を除いてチャンスはない。そこで事件は決行され、日本史が激変したことは誰もが知る通りだ。

 だが歴史家は、偶然には関わりたがらない。「必然は理解可能だが、偶然は面倒」と考える。偶然を必然と同様に記述するのは困難との思いがあるのだろう。

 本能寺の変をめぐっては、黒幕の存在を指摘する見方もある。黒幕として挙げられるのは、豊臣秀吉、徳川家康、朝廷、イエズス会等々。こうした説が次々と登場するのは、偶然を受け入れることの難しさを表していると言えよう。