元旦社説で安保重視した読・産、国の根幹を論じようとしない朝・毎

◆過剰報道は煽動の類

 新しい年を迎えて、新聞の使命を改めて考えてみる。

 新聞は「社会の木鐸(ぼくたく)」と呼ばれる。木鐸というのは、木製の舌のある鉄でできた鈴のことで、中国で法令などを人民に宣伝するときに鳴らしたという(「礼記」)。それが転じて世人を覚醒させ、教え導く人を指すようになった。

 「宣伝」という言葉を欧州で始めて使ったのはカトリック教会で、1622年のことだという。宗教改革に対抗するため教義を体系化し、その伝播活動で宣伝という概念が登場した。思想や主義・主張を大量の人々の間に浸透させ、定着させる試みという意味だ(藤竹暁『マスメディアと現在』)。

 この宣伝の概念から「扇動」を分け出したのがレーニンである。宣伝は少数の人々に対してマルクス主義の理論的体系を教え、前衛を育成することを目的とした。これに対して扇動は一般大衆に対して単純に一定の意識をもたせ、人の気持ちを煽りたて、ある行動をそそのかすためのものだとした。ロシア革命では「戦争反対、人民に土地とパンを」と革命を扇動した。

 では、日本の新聞はどの部類に入るのだろうか。「木鐸」なのか「宣伝」なのか、はたまた「扇動」なのか。昨秋、特定秘密保護法を巡って一部メディアは大反対キャンペーンを張った。その手法はセンセーショナリズム、過剰報道、あげくの果てに法体系が現在と全く違う戦前の話まで持ち出して「暗黒社会に陥る」と叫んだ。

 そうした紙面づくりは、理解を求める宣伝という次元でもなければ、いわんや木鐸でもない。どう見ても「扇動」の類だ。とりわけ朝日がそうで「レーニンの申し子」を思わせた。果たして読者はどう見たか。

◆二分された立ち位置

 今年、新聞はどの立ち位置で臨むのだろうか。元旦から1週間が経ち、各紙は2日の休刊日を除いて計5本(6日現在)の社説を出した。それを見ると、立ち位置がはっきり二分された。

 読売の元旦社説は「日本浮上へ総力を結集せよ 『経済』と『中国』に万全の備えを」と総合的に論じ、5日付「朝鮮半島の変動」、6日付「安倍外交と安保」と、立て続けに安保をテーマに掲げた。

 産経元旦付は論説委員長の「年のはじめに」で、「国守り抜く決意と能力を」を見出しに「自らの手で自国を守り、『国際社会に貢献する道義国家』を志すためにも、戦後価値観を高枕に眠っているわけにはいくまい」と訴え、6日付主張は日米同盟の強化へ「集団的自衛権の容認を急げ」とした。

 このように元旦から5本の社説のうち、読売は2本、産経は3本が安保問題で、防衛重視の姿勢を鮮明にさせた。

 これに対して朝日と毎日は似通った精神構造のようだ。朝日の元旦社説は「政治と市民 にぎやかな民主主義を」、毎日は「民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう」。要するに国家の根幹を正面から論じようとしていない。言ってみれば「枯れ木も山の賑(にぎ)わい民主主義」である。

 朝日3日付社説は麻生副総理の「ナチス発言」まで持ち出し、改憲条項の緩和がまるで違法かのごとくに「『一強政治』と憲法 『法の支配』を揺るがすな」と論じた。ここでも「扇動」の余韻が残っている。

◆対話で暴走防げるか

 朝日と毎日は安保や防衛について元旦から一度も遡上に載せていない。朝日4日付は「日本の近隣外交 それでも対話を重ねよう」と言うが、これは防衛抜きの「仲良し論」にすぎない。

 その中で北朝鮮について「張成沢氏の粛清で新体制の恐怖政治ぶりが鮮明になった。その暴走を防ぐことは周辺国全体の安全策であり、もっと力を合わせるべき課題だ」と述べている。だが、暴走を防ぐ「力」と言いながら、防衛力は置き去りだ。「対話」だけで暴走が防げるとはとうてい思えないが、朝日は「対話」しか眼中にないようだ。

 その他の社説テーマを見ると、朝日は「大都市の危機」(5日付)「原発政策」(6日付)。毎日は「文化栄える国」(3日付)「首都東京の未来」(4日付)「訪日外国人」(5日付)「医療」(6日付)。

 いかに安保から逃げているかが分かろうというものだ。

(増 記代司)