尊敬と互助精神不可欠に 在日外国人支援ボランティア活動家 浅沼雅子氏に聞く
外国人女性ワーカーの涙〈下〉
現代の「唐行き」さん/私だったら気が狂っていた
私が施したというより/学ばさせていただいた
――帰国した人とタイで会ったことは?
私は一度もタイには行っていない。
私と個人的なつながりのある牧師がバンコクにいたから、帰るところがないと彼女たちも大変なことになるので、当座の状況によっては牧師に当面の世話をお願いして帰した。
その時、ひどいケースでは着替えも何もなく、裸足にサンダルだけ、スウェットスーツは汚れていて下着も替えがない。それで私や家族の古着や靴を履かせ、かばんの中に替えの下着や靴下、ヘアーブラシ、日常品を入れて日本のお土産と財布にちょっとのお金を入れて準備したこともあった。
――実のお母さんのような立場だ。
だから彼女たちからは「お母さん」と呼ばれていた。
タイに帰ると、向こうから平カナの手紙を送ってきた。
3カ月家にいたタイ人女性は、家事の手伝いをしながら、日本語を勉強していた。ある時、テレビを見ていると北海道という字が出た。
彼女は途端に、「私、読めるよ」「きた、うみ、みち」だと言う。「そうだねー。でも日本は音読みと訓読みもあるからホッカイドウというの。でもすごいね。漢字も読めるんだね」と褒めてあげると彼女たちの自信につながっていった。
なお、私が彼女たちのような立場だったら多分、狂ってしまっていただろう。
――人生の暗転だ。
フィリピンのショーのビザで来る女性たちは、スナックみたいなところで、ハワイアンダンスを踊ったり歌ったり、それで半年一年いて帰っていく。彼女たちもそれぐらいの積もりで日本に来ていた。
彼女たちは、日本で言う「唐行き」さんと同じだ。日本だってそういうのがあったことを、彼女たちに教えた。昔は火縄銃の種子島一丁と、美しいうら若き乙女20人とが等価だったらしいという話を聞いたことがある。そういう時代があったことを彼女たちに教えた。悲劇はあんただけじゃない。自分たちだけが可哀想な立場ではなくて日本にも同じような歴史があったし、これから先にも起こりうることなんだと話した。
戦争があれば一番先に女性が連れ出されもした歴史もあった。
だから、あなたタイ人、私日本人ということで、関係ないではなくて、助け合うことが肝心だと諭した。
何人(なにじん)というのは人間がつくったものであって、互いに尊敬して深い理解の下で生きていくべきだ。
そういう格好で巡り合った人というのは、私が施したのではなくて、むしろ私こそが彼女たちから学ばせてもらったのだとつくづく思う。
――特に心に残る人はいるか?
みんな親戚や兄弟のようなものだが、先ほどの牧師が住んでいたバンコクのサンスーンというスラム街で生まれ育って麻薬の密売をやっていたご夫婦がいて、それが牧師の伝道でクリスチャンになった。その夫婦と言葉は通じないけど仲良くなった。
スラムには麻薬の売人だとか裏の人たちがいた。
ご夫婦には娘がいて大学まで行って、一度、日本にも来たことがある。
ご主人の方は、肝臓を痛め、それが原因で亡くなったが、両親がそろっていた時にはスクーターを購入し、配達の仕事を始めた。当然、麻薬の売人はやめた。
そのバンコクの夫婦に10年前、主人が会いに行ったことがある。主人ががんになって、あと2年ということだった。それで主人は、死ぬ前に一度会っておきたいと思ったのだ。それはお互いに要求していた事柄だった。
その人は一度も日本に来たことがなくて、牧師を介して私と文通をしていた。
向こうは「麻薬の売人をやっていて、うんぬん」と書いてきた。
それに対し「私もろくでもない人生を送っていたんだから、あなたにとって私は輝かしい存在でも何でもない。私は金持ちの娘でもない。貧乏な家に生まれて、好き放題の不良をやってこの年まで生きてきた。あなたと変わらない。ただあなたがタイ人で私が日本人というだけのことでしかない」と返事を出した。
その率直な手紙に、とても共感してくれて、それで主人を紹介した。
直接、会わなくても心が通じた。そのご夫婦は、私たちのために、とりなしの祈りをしてくれ愛してくれた。それに比べると、私は何にもしていない。かえって私が世話になってしまった。
――麻薬の売人というのも、人間が悪いからそうしているのではなく、仕事がないだけという事情もある。
一生懸命に生きていることだけは確かだ。日本みたいに不満の中から悪行をするのではなく、生きるための手段、断腸の決断からであろう。
ご夫婦は教会に行って私にお手紙が書きたいと牧師に、言ったことがある。そうしたら牧師は、まずタイの文字を書けるようにしましょうと言って、日本人牧師からタイ文字を習った。それで書けるようになった。それでタイ語でお手紙を書いて、それを牧師が日本語に直してくれた。
それでいい年になって、やっとタイ語が書けるようになった経緯がある。
その手紙をいただいた。
希望というものはいつになってもあるものだ。麻薬の売人をやっていた人は中学どころか小学校にも行ったことがないのに、一生懸命に40過ぎて、文字を習って、お手紙が書けるようになった。
――それこそ奇跡みたいなものだ。
私も会いたいと思ったけど、夢は結局、かなわなかった。
――尊敬する人物は。
尊敬するのは縄文時代の人たちだ。貝を食べて貝塚をつくりながら、一生懸命に暮らした縄文人の人生は最高だと思う。私の先祖だと思うと誇りにさえ思う。
茨城は歴史が埋まった土地柄だ。ふるさと歴史館や遺跡めぐりだの古墳めぐりだのしながら、「その時代の人と私は親戚なのよ」と自慢している。
――燃え上がるような縄文時代の火炎土器はすごいと思う。
縄文時代は大体、3期に分かれ長かった。だから時代で文様も違う。そのうち渦巻き文様や埴輪(はにわ)が出てきたりする。太陽を表す文様や流線型の美しさには目を奪われる。宇宙人みたいなメガネをかけているような土偶は祈る女性だそうだ。この町の歴史館では埴輪や土偶に着付けを施し、ひな壇を作った。
こうしたいろいろな血を受けた父祖たちのことに思いをめぐらせると、こうした小さなことにこだわってはいけないと思う。
暑い中も寒い中も、平気で狩りをして、自分たちでいろんな土器だけでなく武器を作ったりしながらいのししを殺したり、鹿を殺したりしながら、強く生きてきたわけでしょう。そういう先祖がいて、私がいる。
誰を尊敬するかと言われれば、縄文時代の父祖たちほど尊敬する人はいない。