監禁現場を知る自分が証言を
被害者の体験と目撃現場(26)
再び韓国に戻った舞さんは、語学を活かしてIT関連会社やフリーランスで翻訳の仕事をした。
しかし、自身を含め、周囲の人々の生き方を見ながら、正しい生き方とは何なのか、人はどう生きるべきなのかを考えれば考えるほど、人生に明るい目標が持てなくなっていた。次第に「山奥にある寺にでも入って、人生や生きる意味を静かに考えたい」と思うようになった。
そんな時、拉致監禁から解放された直後に電話し、何かと相談に乗ってくれていた友人の裕子さんとの話から、韓国京畿道の田舎にある協会施設の「清平修錬苑」で日韓両国語に通じるアルバイトを募集していると聞いた。
舞さんが脱会していたことを知っていた裕子さんは「そこでは働かないだろう」と思って、軽く話したつもりだった。しかし、舞さんは違った。「その山奥で人生について考えることができれば」と、応募した。
緑あふれる山々が連なる自然の中で働くうちに、舞さんは厭世観に染まりつつあった心の内面に変化が表れた。自らの人生に対しても希望や夢を持つ力が少しずつ湧き始めた。
脱会後は宗教遍歴をしていたが、この頃は協会のことも意識するようになっていた。改めて、客観的に調べていくと、拉致監禁の現場で宮村氏から聞かされていたことは「嘘ばかり」だったことに気づかされた。
監禁の恐れがない韓国で、冷静に考えてみると「やはり、私の真理に対する渇望を満たしてくれる教えは統一原理以外にはない」と思い直すようになった。そして再び、協会の信仰を蘇らせたのである。
数年間、清平修錬苑で働いた夏のある日、舞さんは衝撃的な写真を前にして、自らの目を疑った。
それは12年5カ月にわたって拉致監禁された後藤徹氏が監禁から解放されたあと、即入院した直後の写真だった。
筋肉が削げ落ち極限までやせ細り脚が棒のようになった姿に、舞さんは背筋がゾクッと寒くなるほどの衝撃を受けた。
と同時に、すぐ「あの時の人だ」と気づいた。「あの時」とは、舞さんが監禁されていた1998(平成10)年5月に、同じ荻窪フラワーホームに監禁されていた後藤氏の部屋を訪れたときのことだ。元信者に続き入った部屋の中を支配していたのは、取り巻きを伴った脱会屋の宮村氏であった。
2008(平成20)年になって、ようやく12年以上もの監禁から解放されて出てきた人だと聞いて「ずっとあのマンションにいたのか」と仰天した。
「私が見たあの後、さらに10年もあの狭い部屋に閉じ込められていたなんて信じられない」。考えるだけで、冷や汗が出て止まらなかった。
後藤氏の拉致監禁の状況を聞きながら、「なぜ偽装脱会でもして、あそこから出なかったのか。12年以上もいたら気がおかしくなってしまうのに、なぜあのままいたのか」と考えを巡らせた。12年5カ月もの監禁という異常な事態を思うと、心臓がバクバクと脈打った。
「後藤さんの拉致監禁現場を知っている自分が証言する必要がある」。そう考えた舞さんは「監禁中の後藤氏を見た」ことを協会関係者に知らせた。
(「宗教の自由」取材班)