京城喫茶店の変遷史
植民地下のソウルの姿描く
いつも韓国の政治情勢や南北情勢などを扱う小欄だが、秋の訪れとともに少し文化的な話題を取り上げて、韓国ソウルの別の顔を覗(のぞ)いてみることにする。
「月刊朝鮮」(10月号)に掲載された金泰完(キムテワン)同誌編集長による「京城喫茶店の変遷史」は植民地下とはいえ、近代化が始まり「モダニズム」の時代を迎えた京城=ソウルの姿を生き生きと伝えている。
喫茶店はわが国でも既に“絶滅危惧種”となった。アメリカ式のコーヒーショップが幅を利かせ、じっくりと腰を据えて本を読んだり、スポーツ新聞を広げたり、曲をリクエストしたりできる場はなくなっている。
韓国も同じ状況で、昔懐かしい「茶房(タバン)(=喫茶店)」文化は消えてしまったが、昭和60年代にはまだ辛うじて残っていた。初めて入って驚いたのはコーヒーを注文するとインスタントコーヒーが出てきたことと、女性が席に着いたことだ。単なる話し相手なのだが違和感があった。
ソウル五輪(1988年)を契機に次第に韓国も経済発展していき、日本が平成に変わる頃になると、豆をひいたコーヒーを出すようになる。「原豆(ウォンドゥ)コーヒー」といった。今ではスターバックスをはじめとして、繁華街でのコーヒーショップ過密度は東京を超え、いつも若者たちで混み合っている。
さて、京城に初めて喫茶店ができたのは日韓併合後の1923年、京城本町通四つ角だった。現在の忠武路(チュンムロ)1街である。「二見(ふたみ)」という名で日本人が経営し、「主に日本人青年らや社交界の人々が中心だった」という。
それが「“新しい風習を習って戻ってきた”東京留学組の韓国人が増えていき、喫茶店は韓国人エリート階層の文化芸術空間に変わっていった。(略)文人、画家、俳優、歌手などの芸術活動が喫茶店で繰り広げられた。文学の夜、詩の朗誦(ろうしょう)会、絵画展示会が開かれたし、原稿依頼や演劇・映画関係者の打ち合せなどが行われた」という。同じ時代の日本と似たような空間だったわけだ。
金編集長は、「暗鬱(あんうつ)な植民地だったが、新しい文物の荒々しい波がモダンボーイ、モダンガールを誕生させた」場だったと書く。
韓国人の手による喫茶店が初めてできたのは「二見」開店から4年後、ソウル寛勲洞に映画監督李慶孫(イギョンソン)によってつくられた「カカデュ」だ。店名の意味は「分からないが、フランス革命当時、警察の目を避けて集まった秘密アジトの酒場の名前という説がある。カカデュがそのような抗日運動の喫茶店であったかは知る術(すべ)がない」という。
当時の喫茶店は繁華街である忠武路や鍾路(チョンノ)が中心だったが、35年に詩人李霜(イサン)が明治町(現在の明洞(ミョンドン))に「麦茶房」を自ら設計して開店したのが明洞が栄えていく契機となった。
そして、明洞喫茶店の全盛期は韓国動乱(50~53年)以降に訪れる。「大邱や釜山に疎開していた詩人、小説家、俳優、美術家らが足を向けた。『マドンナ』『東方サロン』などは貧しい芸術家たちの安息所だった」。明洞が「喫茶店文化の中心地」となったのだ。
動乱以後、ソウルには米軍が駐留することになる。否応なしにアメリカ文化が流入してきた。町の色合いもだいぶ変わらざるを得ない。「19世紀的な上品な西欧美がなくなり、アメリカ化していくのに、一抹の寂滅を感じざるを得ない」と金編集長は述べる。
韓国の喫茶店盛衰史を見ながら、去年8月31日に61年の歴史に幕を下ろした東京新宿歌舞伎町の「スカラ座」が想起される。コーヒー1杯で何時間も粘ることができ、リクエストがかかるまでに1時間、2時間は待たねばならないクラシック喫茶だった。新宿が学生運動で荒れた時も、バブル全盛の時も、同じ佇(たたず)まいを保っていたが、近年は特殊な職業の人の待ち合わせ場に変わっていた。
喫茶店は日本も韓国も同じく時代の変遷を映している。
編集委員 岩崎 哲