相対的貧困を「貧困」と煽り立てる報道にマルクス主義が滲む朝日など

◆大正と比較に違和感

 『日本残酷物語』。平凡社ライブラリーにこんなタイトルの全5巻シリーズがある。初版は1959年で、民俗学者の宮本常一や作家の山本周五郎が約50編のノンフィクションを監修している。第5巻「近代の暗黒」には、田舎で食い詰め東京に出てきた貧民窟の子供たちの話がある。

 「小学校の給食は子どもばかりでなく、一家中のものに待たれていた。『いまに兄ちゃんが学校からおまんまもらってくるよ』と、母は泣く子をなだめるのである」(「日ぐらしの里」の項より)

 一家は金が無くなると絶食し、子供の持ち帰る給食の残飯を頼りにしていた。「戦後は終わった」とされた50年代半ばの話だ。「絶対的貧困」はこんな生活を指すのだろう。

 朝日の1面コラム「天声人語」(11日付)は、経済学者の河上肇が「貧乏物語」を朝日紙上に連載し始めて100年が経つとし、「もしかしたらこれは、『いま』の話ではないか。読んでいて、そんな気がしてくるところは少なくない」と述べている。

 「毎日規則正しく働いているのに、ただ賃金が少ないために生活に必要なものが手に入らない。きわめてわずかな人々の手に、巨万の富が集中されつつある――。働いても生活が苦しい『ワーキングプア』の言葉が生まれる現代社会とだぶって見える」

 『残酷物語』の読者には何とも違和感のある話だろう。言葉としてはだぶって見えても、大正時代の「貧困」と今の「貧困」はまるで違う。今日の貧困は全世帯の所得を順に並べ、その真ん中の世帯の半分に満たない所得層の「相対的貧困」が主だ。

◆実態と異なる「貧困」

 毎日18日付「質問なるほドリ」によれば、2012年は244万円が真ん中で、この半分の122万円に届かない人が相対的貧困。1人暮らしなら月10万円、2人なら月14万円、3人なら月17万程度で、貯金などは考慮しない。やりくり上手なら、それなりの生活はできそうだ。

 ところが、メディアは(天声人語のように)、絶対的も相対的もごちゃまぜで「貧困」を報じる傾向がある。NHKは8月、「高校生と教員のための『子どもの貧困』」と題する集会を報じ、経済的理由で専門学校への進学を諦めた母子家庭の女子生徒を紹介した。

 この報道をめぐってネット上に批判が噴出した。自宅の本棚にはアニメグッズや漫画、DVD、机にはプロ仕様のペンが並べられており、女子生徒はツイッターに「豪遊」「散財」を誇っていたというのだ。それで「貧困というのはNHKの捏造」とネット炎上した。

 これに対して左翼系団体は「貧困たたき」として抗議デモを行い、それを受け一部新聞はネットの「貧困たたき」を批判した。朝日14日付「ニュースQ3」は、「NHK報道めぐり『貧困たたき』 なぜ起きた」と、左翼の言う「貧困たたき」をそのまま見出しに採り「女子高校生を中傷」「相対的に貧困状態」などと記した。ここでも相対的貧困をもって「貧困」とする。

 一方、毎日・生活報道部の西田真季子記者は20日付「記者の目」でこれを扱い、「貧困問題を取材してきた記者として、ステレオタイプの『貧困像』が根強く残ることに驚くとともに、私自身の報道の在り方にも問題があったのではないかと考える」とし「分かりやすい貧困の姿だけを報じ、『貧困とはこういう生活をしている人だ』いう考え方を無意識に社会に広めていたかもしれない」と反省している。

 西田記者は「当事者は多様だ」と言うが、それにもかかわらず「相対的貧困」と、「貧困」を冠するから事実が正確に伝わらないのだろう。

◆真実の報道とは無縁

 だが、それでも左翼系は「貧困」にしがみついている。それはマルクスが『資本論』の中で「貧困増大の法則」を唱え、資本主義が崩壊すると“予言”したことに関わっているのではないか。マルクスは労働者が価値を生み出すとする剰余価値論では辻褄が合わなくなると「相対的剰余価値」との概念を創作したが、それと同様に今日のマルクス主義者は「相対的貧困」をもって貧困増大と言いたいのだろう。

 こんなマルクス的概念に縛られた「残酷物語」は真実の報道とは無縁のものだ。良識ある記者はそろそろ「相対的貧困」にレッドカードを突き付けてはどうか。

(増 記代司)