一緒に暮らせば家族同然 在日外国人支援ボランティア活動家 浅沼雅子氏に聞く

外国人女性ワーカーの涙〈上〉

 浅沼雅子さんが最初に結婚した相手は外国人だった。だが、その外国人は母国に家庭を持っており、日本で就労するために浅沼さんを利用しただけだった。そうした散々な目に遭いながら浅沼さんは、なお日本で働く外国人就労者の辛苦に涙し、支援の手を差し伸べてきた。その在日外国人支援ボランティア活動家・浅沼雅子氏に胸の内を聞いた。
(聞き手=池永達夫)

借金の形で縛られる/不法渡航費用は200万円

帰国に必要な日本人の支援/言葉の問題や面倒な手続き

400 ――大体、港町には歓楽街があるものだが土浦がそうした土地になったというのはどういう歴史があるのか。

 土浦は「七つボタンの予科練」があったから、戦前から日本では有数の夜の街だった。

 阿見町にあった予科練時代は、明日特攻隊でいくという隊員に、前日、女を買う。そういう女郎が溢れている繁華街があった。また最近まで有名人たちが、お忍びで来る姿があった。北海道のすすきのと同じ程、有名だった。

 さらに高度成長期には、工業団地などいろいろできて土浦は外国人労働者や売春婦のたまり場になっていった。とりわけ多かったのがタイ人にフィリピン人、それに台湾の方もいた。

 それで土浦では入管の一斉捜査とかが、結構あった。残っている人たちも、いろいろな形で結婚したりして本国の家族に送金したりしていた。

 昔は希望を胸に日本にやってきた人が多かった。隣町に行くと、月の家賃が4万円ぐらいの一軒家に何人ものタイ人女性たちが寄り添いながら暮らしていたものだ。

 日本人男性の名義で借りて、住んでいるのはタイ人女性というケースが多かった。たまたま訪問した折、彼女たちはきさくに食事を出してくれ、共に食卓を囲んだこともある。

 一番すごかったのは、大学寮になっているアパートに夜の仕事の人たちがギュウギュウ詰めになって身を潜めていた。彼女たちもきさくに食事を提供してくれて、もてなしてくれた。

 土浦と隣接する村では、小さな飲食店に多くの外国人女性たちが客を待っている姿が見受けられた。この地の夜の店には、駐車場が完備されているものが多くあり、大抵、客と同伴して出て行くケースが見受けられたものだ。

 こうした女性たちは、日中も短時間のデートをすることもあったと話を聞いた。しかし、夜は夜で仕事をしていた。

 職人だった知人の常連店に一度、同行させてもらったことがある。

 玄関にはカメラが設置されていて、店の常連だとか確認してドアを開け中にいれるシステムになっていると、その知人は説明してくれた。

 中には女性が30人以上いた。全員というわけではないが、大体がタイ人、それに少しの台湾人だった。

 そのころ、私の家にもこうした人たちが、一人二人とタイ人女性を通じ助けを求めて来るようになっていた。その中の一人は重い肝臓病を患い、帰国を願いながら入管に捕まるのではとの恐怖の中にいた。そうした帰国のお手伝いをしたことがある。

 ――パスポートがないのにどうやって帰すのか?

 手順は、まず東京都練馬の入管事務所まで出頭する。そこでナンバーを持って写真を撮られ、片道航空券を購入して、タイ大使館でビザを発給してもらい帰ることになる。

 だが、言葉の問題や面倒な手続きが必要で、日本人が付いていってあげないと一人ではなかなかうまくははかどらないし、一人で出頭する勇気が大変なものだ。毎回、同行して手続きを進めたにしても大体、帰るまでに1カ月ぐらいかかる。

 ちょっと悪質な仕事に手を染めていたり、オーバーステイが長かったりすると、2、3日は入管事務所の地下に泊まらなくてはいけないということを聞かされた。

 私が手助けした人は、身を潜める生活をしていて神経的にも疲れてしまったり、病を背負ってしまったというパターンが多かった。日本に来た以上、金を稼いで送金しないといけないから、なるべく長く日本に滞在しようとみんな必死だった。

 隣町などでは工場内にアパートがあって、そこに住み込みの格好で働くこともあった。そうしたところには一斉に入管が入った。

 そうしたものから逃れるために、日本人と偽装結婚した人も少なくない。

 だが最初から、売春目的で日本に来た人は少ない。仲介人から「日本の焼き鳥屋などで、ウエートレスをやれば月10万円以上仕送りができる」と言われて騙(だま)されたと訴えてきたタイ人女性も多くいた。

 彼女たちの話を聞くと、当初、不法渡航費用として80万から200万円ぐらい業者から借金するかたちで、偽物のパスポートなど持たされて、日本に入国したというケースだった。中にはパスポートさえ没収されるという話も聞く。

 現在、そうした彼女たちの生き方が変わり始めたのは、同胞同士で助け合ったりしながらタイ式マッサージやタイ料理屋、カラオケ屋などの事業を、多くの女性たちが立ち上げ生活基盤を強化したからだ。そこでは売春はないし、40~50歳を過ぎても働ける。そうやって彼女たちは生き残った。

 IDカードを取られた人の帰国を手伝ったことがあるが、役所に相談に行くと担当者から「タイ語を話すからタイ人ということにはならない」ということでタイ人という証拠が必要と言われた。それで、仕方なく目黒のタイ大使館に連れて行って、証明はないけれども助けてくださいと言って、2カ月ぐらいかかってやっと帰国させたこともあった。

 ――具体的にはタイ大使館が認証をしたのか。

 そうだ。

 ――その間は?

 私の家にいた。また、何人かの人は行き場がなくなった時、私の家で帰国するまで生活したこともあった。

 私は働いているものだから、彼女たちも何か役に立ちたいと思って、タイ料理を作って家事を手伝ってくれたりした。だから家族同然となって、帰るときは共に涙を流す関係になった。

 同居している私の家族とも喋(しゃべ)って、それまで日本人を誤解していたことが晴れたりもした。

 ――地獄のようなところに放り込まれたけれども、そこには理解してくれる日本人もいたということか。

 そうだ。

 そうした一人だったマリアというタイ人はキャリアが長くて、「お母さん、お願いがある」と言ってきたことがあった。

 「何?」と聞くと「血液検査したいから一緒に病院に行ってくれないか?」と言う。

 それで一般血液検査をすると、マリアは「お母さん、だめ。これ違う」と言う。

 「何が違うのか?」と尋ねるとマリアが調べたいのはエイズかどうかという切実なものだった。

 それでもう一度、行ってエイズ検査したことがあった。

 ――料金はどの程度かかるのか?

 一回が約1万円だった。

 最初は身近な一人が二人になり、二人が三人になるといった格好で、いろんなタイ人と触れ合った。

 あさぬま・まさこ 1953年茨城県生まれ。1981年に外国人男性と結婚。だが外国人男性は日本で働くための偽装結婚だった。間もなく外国人男性の消息は途絶え婚姻関係は消滅。91年、教会で受洗。93年に工事現場職長の浅沼氏と結婚。