和歌の魅力が受刑者に与える安らぎの心 歌人 坂田資宏氏に聞く
わが国では毎年、3万人近い新受刑者が収容されていく。罪名は窃盗や覚醒剤取締法違反、詐欺などが多く、また刑期を終えて出所した後に再度入所する割合も40%を超える。そうした中で、歌人の坂田資宏氏は篤志面接委員として和歌を通して受刑者の矯正指導に当たっている。和歌による矯正の効果、和歌の魅力などについて坂田氏に聞いた。
(聞き手=湯朝 肇・札幌支局長)
郷土を愛する歌を詠む/心の持ち方もアドバイス
ふるさとのまほろばに心寄せ/自然や人々の息吹を吹き込む
――篤志面接委員を始めるようになったきっかけは何だったのでしょうか。
平成元年に札幌刑務所から篤志面接委員を頼まれたのが始まりでした。当時、私は北海道開発局を退職し、農業土木に関わる団体の職員として勤務していました。
篤志面接委員の役割には、一般的に①受刑者が抱える家庭問題や職業問題など様々な悩み事に対して相談や助言を与える②和歌や俳句、書道など趣味や教養に関する指導を行う③交通安全指導や酒害教育、薬物依存離脱のための指導――といったものがあります。
その中で私は現在、空知管内の月形(つきがた)刑務所を訪れ、和歌の創作・歌会指導を担当しています。中学校・高校のクラブ活動のようなもので、受刑者が趣味を持ち教養を高めることで彼らの視野を広げ、人格を向上させる狙いがあると思います。
月に一度の指導で、和歌の歌会には毎回6、7人集まります。私は和歌を通して受刑者の心が癒やされ、彼らが刑期を全うし真人間として社会復帰できるようになればと思いながら接しています。
――短歌を指導する上での制約はあるのでしょうか。
私が現在通っている月形刑務所には2000人ほどの受刑者が収容されていると聞いています。その中で和歌を勉強したいという受刑者は20人ほどがいるそうですが、その中から6、7人の同好者が選ばれます。中学・高校のクラブ活動のようなものといっても自由に参加できるわけではありません。
刑務所の中のことですから和歌の創作活動や歌会を行うにも禁止事項があります。それらを守りながら授業を進めなければなりません。
――禁止事項とはどのようなものですか。
歌会の時間は1時間で、昼休み時間を利用しています。受刑者には決められた作業日課がありますから、全てにおいて時間厳守です。
また、受刑者同士が連絡を取り合うような行為やそうした内容の和歌の創作は絶対に禁止です。
禁止事項は全部で十数項目近くあります。そもそも和歌は個人の内面にある心の世界を歌に詠むわけですから、他者との連携や連絡は必要ありません。カラオケやスポーツなどの他の趣味活動とは異なる側面を和歌はもっています。
受刑者が過去の犯罪と向き合い、反省を重ねていく中で、現在の自分の姿、人間の本来の姿を和歌に詠んでいくわけですから、それは正直な心の表現であるといえます。そうした受刑者の作品を見ながら和歌の指導と同時に人間の心の持ち方をアドバイスしていくことが篤志面接委員としての私の仕事だと思っています。
――長年、和歌を指導されると、受刑者の方々もかなり上達されるでしょうね。
歌会に参加した人の中には、以前に国語の教師をしていたとか、有名な和歌の先生に付いて勉強していたという人もいました。「何で君のような方が、何年もここに入っているのか」と言いたくもなります。一つのことをきちんと指導を受けながら勉強すれば、確実に上達していきます。
――坂田先生が和歌を始められたのはいつ頃からなのでしょうか。
私は昭和20年に岩見沢市の農業学校に入学しました。専攻は農業土木科でした。当時は戦争のさ中ですから、私たちはすぐに学徒援農として地方の田舎に遣られ、週に一度巡回授業を受けていました。
1週間分の宿題として「援農日記」の提出が義務づけられていました。その時に詩や和歌を自己流に作ったのが始まりです。
そんな折、当校の教師にとても有名な和歌の先生がいることを知りました。当時、短歌界には「アララギ」と「潮音」という二大結社があったのですが、その先生は「潮音」に所属していました。
私は、在学中その先生から和歌の手ほどきを受けました。農業学校卒業後は道庁石狩支庁拓殖課に就職しますが、昭和24年に私の師匠・山下秀之助先生と出会い、「原始林」に入会しまして本格的な短歌の創作活動に入っていきました。
28年には北海道開発局に配属になり、農業土木技術者として道内各地の泥炭火山灰地開発事業に携わる一方で、様々な地方の風景や歴史、農民生活を題材に和歌の創作を続けていきました。
――坂田先生はこれまで多くの歌集を出されていますが、和歌を創作する上で心掛けていらっしゃることは何でしょうか。
短歌は明治以前には和歌と呼ばれ、皇族や貴族など武士の嗜(たしな)みとしてのみ楽しまれるものでした。
それが明治半ば、それまでの和歌を旧派和歌としたのに対し、巷間人民の作歌は新派和歌という位置づけで一般に広がっていきました。私の短歌の師匠の山下秀之助先生は当時、札幌鉄道病院の院長をされていました。
山下先生はよく「風土こそ作歌永遠の目標課題です。作歌する人はまず、ふるさとのまほろば(郷土のまさった所)に心を寄せる姿勢は優れたトピックといえます」と語っていらっしゃいました。郷土の風景や産業、そこに住む人々の生活の営みなど、それらを題材にして作った和歌が一番であると述べておられました。
そうした風土の特殊性に焦点を当てながら、一首の和歌に自然や人々の息吹を吹き込んでいきたいと思っています。
――当別町の歴史もかなり深く研究されているとお聞きしましたが。
平成3年から18年間、当別町の教育委員会に勤務することになりまして、それが縁で当別町の歴史を勉強するようになりました。当別は札幌からクルマで北に40分程度のところにあり、自然が豊かで水のきれいな田園都市です。当別に住居を構えて札幌に勤務する人も多いと聞きます。
北海道の地名はアイヌ語に由来するところが多く、当別(とうべつ)もアイヌ語で“沼から来る川(トーペツ)”という意味です。
ところで、当別町は明治時代に仙台藩一門岩出山の伊達邦直主従が開墾したところで、つい最近まで当別町の首長には伊達家の子孫が就いていたというほど岩出山伊達家とは所縁の深いところです。私が勤務していた当時、当別町開基100年記念の町史編纂(へんさん)事業があり、私もその事業に加わって町史の作成に奔走しました。
町民の中には伊達家に関する資料を保存している方が少なからずおられます。そうした方々から資料の整理を依頼されることも多く、当別町の歴史研究は私のライフワークになっています。