木曽義仲を討ち取った、との報が源義経から…
木曽義仲を討ち取った、との報が源義経から鎌倉の源頼朝に届いたのが寿永3(1184)年1月27日午後2時ごろ。頼朝が使者から話を聞いているところに、梶原平三(へいざ)景時からの使者が到着した。彼らは義仲討伐の詳細を記した書類を持参していた。頼朝は景時を「神妙」と評価した。時間の遅れよりも情報の濃密さを重視した形だ(『吾妻鏡』)。
元々頼朝は、弟の義経よりも側近の景時を信頼していた。鎌倉生まれの東国武士だったにもかかわらず景時は、弁舌、歌才、風雅な振る舞いなど京都風の個性の持ち主でもあった。
頼朝が亡くなったのは建久10(1199)年1月13日。その後同年のきょう、景時は鎌倉追放となった。京都へ逃れようとした一族は翌年1月20日、現在の静岡市内で滅亡した。なお、この時期将軍職は空位だった。
景時失脚の理由は、義経はもとより有力な武士たちを頼朝に讒言(ざんげん)したことにある。66人の御家人が景時追放案に直ちに署名したことは、彼の幕府内での人望のなさを物語る。
頼朝に信頼された理由が、頼朝亡き鎌倉幕府の中での孤立を招いた。景時追放の黒幕は、後に初代執権となる北条時政。その娘は頼朝の妻北条政子、孫は2代将軍頼家、3代将軍実朝。
頼家は祖父時政の前に景時を見殺しにするしかなかった。北条氏の強い影響下で記述された歴史書『吾妻鏡』は、景時追放を主導した時政の行動については全く触れていない。