沖縄県議会で翁長雄志知事への批判強まる
戦没者追悼式の平和宣言 半分が普天間移設問題
6月23日の「慰霊の日」の沖縄全戦没者追悼式で翁長雄志(おながたけし)知事は、平和宣言の半分を普天間飛行場(宜野湾市)の移設問題に割いた。参列者から拍手や指笛が鳴り響くという選挙演説さながらの平和宣言は前代未聞だった。政府との対立をさらに深めることになったことで、県議会では知事の言動に関する批判をこれまで以上に強めた。野党自民党は国内外で知事が何度も発言してきた「沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない」ということは事実誤認だとして謝罪と訂正を求めた。(那覇支局・豊田 剛)
「自ら基地を提供したことはない」は事実誤認
自民県議、謝罪と訂正求める
「何回も確認を致します。沖縄は自ら基地を提供したことは一度もございません。普天間飛行場もそれ以外の基地も、戦後、県民が収容所に収容されている間に接収され、また居住所等をはじめ、強制接収されて、基地建設がなされたのであります」
那覇市内の野球場で5月17日に開かれた大規模な辺野古移設阻止集会でこう述べた翁長知事は安倍晋三首相、菅義偉官房長官との会談や国内外の記者会見でも再三、同様の発言をしている。
沖縄県議会6月定例会では、野党からこの部分の発言の真意を問いただす質問が相次いだ。
新垣良俊議員(自民)は、「これまで一度も県民自ら基地を差し出したことがないというが、1956年地主全員の賛成で米民政府(琉球列島米国民政府)との賃貸契約が結ばれた」とし「『銃剣とブルドーザー』で土地を強制接収されたというが、契約している以上は、知事は正しくない」と続けた。
「辺野古誌」(辺野古区事務所発行)では、昭和31年にキャンプ・シュワブの建設のため、久志村(くしそん)辺野古一帯を新規に村長自らが約254㌶を米国民政府に提供、さらに「金武町と基地」(金武町(きんちょう)発行)では、昭和32年に金武村(現在の金武町)が「新規接収800㌶余を受け入れた」と記されている。平成19年県議会第1回定例会で当時の知事公室長(基地問題担当)はこの事実を認めている。
さらに「銃剣とブルドーザーで強制接収された土地については、真和志村(現在の那覇市)が約17万坪で200戸、小禄村(同)が約1万5000坪で28戸、宜野湾村(現在の宜野湾市)が約13万坪で32戸、伊江村が22万1000坪で13戸とされております。これらを合計すると約177㌶で、現在の米軍基地面積の約0・8%に相当します」と答えている。
ところが、現在の知事公室長、町田優氏は「賃貸借契約をしたのは事実」と認めた一方、自主的に契約したのではないことから「自ら差し出したとは言えない」との見方を示した。
翁長知事は、「米軍から『契約しないと強制執行して取り上げる』と脅され契約したという状況では自ら進んで提供したとは言えない」と指摘。「当時は日本国憲法の適用がない。民法も現在のような裁判制度もなかったので、提案を受けざるを得なかった」と推測を述べた。
さらに照屋守之議員(自民)が、「比嘉村長が接触してきて陳情。村議全員の署名を携えてきたために誘致に応じた」という米軍による手記を紹介すると、翁長知事は「時代背景が違う。基本的に考え方が違う」と反論した。
同議員は、「知事は事実を歪曲(わいきょく)している。誘致は誘致。事実と違うことを発言して県民・国民感情をあおれば、信頼が失墜する。総理と官房長官に詫びて事実誤認だったことを認めよ」と詰め寄った。
辺野古社交商工組合の飯田昭弘会長は電話取材に応じ、「(キャンプ・シュワブの時も)地元が有利になるようにいい条件を付け、さらに、米軍を民家に近づけないという条件を付けて受け入れた」と説明、現在の辺野古区のように条件付きで誘致したことを認めた。
県議会での知事に対する批判は、6月1日に県庁内に発足した辺野古新基地建設問題対策課にも及んだ。同課には土木建築部、環境部など複数の部署を横断する11人が人選された。それに先立ち、5月1日からは全庁(74課、約4千人)体制で、平日2人ずつ、移設予定地の辺野古を視察している。
照屋議員は、通常の職務と関係のない職員にも現場監視させることについて、「県庁の職員にはプライドがある。やる気を損なわせることにならないか」と批判。「県庁が反対運動の拠点に見える」と言い切った。さらに、課を新設するに当たり議会への説明が一切なかったことを追及した。
安慶田(あげだ)光男副知事は「説明してしかるべきだった」と謝罪。浦崎唯昭(いしょう)副知事も同様のコメントをして謝罪した。