「彼は瞬く星の下、山に昇り、人みな眠る時…
「彼は瞬く星の下、山に昇り、人みな眠る時、御父に祈った。彼は人々に福音を告げ、彼らの幼児を祝福し彼らの病者たちに触れ、罪人を贖(あがな)い人々が生命の満ち溢れを得るようにと己の生命を犠牲にした」。
これはドイツ人宣教師ヘルマン・ホイヴェルス神父が、司祭の岩下壮一に贈った詩の一節で、良き牧者だった岩下の人柄を伝えている。岩下はカトリックの指導者で、思想家にして神学者でもあった。
その論文集『信仰の遺産』が先頃、岩波書店から刊行された。「編者の序」を友人の吉満義彦が書いている。昭和16(1941)年7月付。岩下はその前年に病没し、70年余を経て甦ったのだ。
論文の多くは38年から40年にかけて発表されたものだが、興味深いのはヨーロッパの思想状況を伝えている点である。岩下がフランス、ベルギー、英国、イタリアに留学したのは19年から25年。
プロテスタントの諸神学も研究し、彼らがイエスの神性と人性とを一致させることにすべて失敗した顛末(てんまつ)を紹介している。残ったのは異教思想と唯物史観的無神論とカトリックの対立。
近代科学、近代芸術、近代経済生活は、信仰や道徳から独立してのみ発達してきた。経済学者の佐伯啓思さんは『20世紀とは何だったのか』(PHP文庫)で、20世紀をニヒリズムの時代、最高諸価値の崩落した時代と結論する。岩下はその大転換期における思想の闘争を書き留めていた。