「打撃の神様」川上哲治さん逝く


日本シリーズ9連覇を果たし、ペナントを手に場内一周する川上哲治監督(左手前)ら巨人ナイン=1973年11月1日、東京・後楽園球場

日本シリーズ9連覇を果たし、ペナントを手に場内一周する川上哲治監督(左手前)ら巨人ナイン=1973年11月1日、東京・後楽園球場

 プロ野球巨人の4番打者として活躍し、監督になって史上最多の9年連続日本一を達成した川上哲治(かわかみ・てつはる)さんが28日午後4時58分、老衰のため東京都内の病院で死去した。93歳だった。熊本県出身。葬儀は近親者で済ませた。親族らが30日、明らかにした。後日、お別れ会を行う予定。

 熊本工業高校時代に春夏計3回甲子園に出場し、1938年に巨人入団。初めは投手だったが、打力を買われて一塁手に転向し、39年に首位打者と打点王を獲得。58年の引退まで「弾丸ライナー」の強打者として活躍し、巨人の黄金時代を築いた。「(打撃練習中に)ボールが止まって見えた」という境地に達して「打撃の神様」とも呼ばれた。

 通算1979試合、7500打数、2351安打、打率3割1分3厘、1319打点、181本塁打。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回。最優秀選手(MVP)にも3回選ばれた。

 引退後2年間ヘッドコーチを務め、61年から監督。「管理野球」を打ち出し、長嶋茂雄、王貞治ら戦力にも恵まれて14年間でセ・リーグ優勝11回、日本シリーズもすべて制した。65年からは、現在も破られていない9年連続日本一を達成した。

 65年に野球殿堂入り。背番号16は巨人の永久欠番。巨人退団後はNHKなどの野球解説者を務め、少年野球の指導にも情熱を注いだ。92年文化功労者。

名選手かつ名将、努力と一徹の人

 戦前から戦後にかけて、日本のプロ野球史に偉大な足跡を残した川上哲治さんが28日、亡くなった。現役時代は巨人不動の4番打者として活躍し、監督としても「V9」を達成するなど、名選手にして名監督。まさに栄光の野球人生だった。

 一時期、大下弘が青く塗ったバットを、川上さんが赤く塗ったバットを使い、「青バットの大下」「赤バットの川上」と呼ばれた。ともに本塁打を連発してファンを喜ばせたが、天才型の大下に対し、川上さんは努力型だった。

 川上さんは熊本工高時代に甲子園の土を3回踏み、1938年に投手として巨人入りしたが、巨人の本当の狙いは同僚の捕手・吉原だったといわれる。しかし、間もなく打者に転向した川上さんは、低かった評価を猛練習で覆した。毎日1000回もの素振りを欠かさなかったという。

 有名な「ボールが止まって見えた」という打撃開眼のエピソードが生まれたのは30歳になった50年夏ごろのこと。川上さんは、その境地を「雑念を払って、球を打つことだけに精神を集中する。疲れてもなお打つ。没入し切った時、球が見えてきた」と話した。

 打率3割が12回。51年の3割7分7厘は86年にバース(阪神=3割8分9厘)に破られるまで、セ・リーグ記録だった。

 「とことんやれば、おのずと道は開ける」が信条。61年の監督就任後は勝つことに徹底的にこだわり、妥協のないチームづくりに専念した。

 ドジャースを手本に、今では常識となったチームプレーを積極的に取り入れた。投手は先発完投が当たり前といわれた時代に、「8時半の男」宮田征典を抑えの切り札に使ったことでも、先見性を発揮した。

 全てが勝利のため。キャンプで練習に集中させるため、報道陣のグラウンド立ち入りを規制した「哲のカーテン」もその一つ。「石橋をたたいても渡らない」「面白みに欠ける」とも言われたが、考えは曲げなかった。監督の優勝11回は鶴岡一人さん(南海)に並ぶ最多だが、日本シリーズ不敗は、他の追随を許さない。今後も球史に輝き続けるだろう。