朝鮮通信使の教訓 隣国同士が200年以上も戦わず

日韓国交正常化50年 「嫌韓」「反日」を越えて(9)

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昨年11月、埼玉県川越市で行われた朝鮮通信使の再現パレード(増子耕一撮影)

 室町時代から江戸時代にかけ、十数回にわたり日本に派遣された李氏朝鮮による外交使節団「朝鮮通信使」。これを国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録しようという動きが今、日韓両国で起こりつつある。通信使をライフワークにしてきた在日韓国人の金両基・元静岡県立大学教授が、事実上の発起人だ。

 「豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で断絶した日本と李氏朝鮮の国交を回復させようとした徳川家康の平和外交で、隣国同士が200年以上も戦火を交えなかったのは世界史でも稀有(けう)なこと」

 金氏は昨年、通信使ゆかりの清見寺(静岡市清水区)に報道機関関係者を招いた韓国大使館主催のツアーや都内での講演会などを通じ、精力的に世界記憶遺産登録の必要性を訴えた。

 家康は江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った対馬藩を通じて国交回復を打診。1607年、家康の書いた国書の返答として江戸時代初めての通信使が派遣されてきた。家康没後、通信使は王の許可も得ず、家康を祀(まつ)った日光東照宮まで足を延ばし、追悼の意を表したとされる。

 その後、通信使は将軍の交代や世継ぎ誕生に合わせた「祝賀使節」の性格を帯びるようになる。釜山から船で日本に渡り、瀬戸内海を航行し、東海道を歩いた。国書を収めた輿(こし)を中心にした行列は今日、日本各地で再現されている。

 ただ、日本側の財政事情などが絡み、必ずしも順風満帆だったとは言えない。通信使の接待費は1回につき100万両に達し、幕府は藩を太らせれば反旗を翻しかねないという懸念もあって、通信使が通る各藩に負担を求めた。当時の幕府の年間歳入額が70万両だったことから考えると、その突出ぶりが分かる。このため将軍侍講として幕政に関与した新井白石は、通信使に提供する宴席を減らすなど経費削減に苦心した。

 それでも最後に来た1811年までの間、江戸時代だけで計12回の通信使が派遣された。両国親善友好の動かしがたい実績だ。

 「日韓関係がいいとは言えない時期だったが、実際に韓国に行って反日感情をぶつけられることは全くなかった。若い人から年配の方まで、むしろこれから日本と仲良くしていきたいと言われることが多かった」

 昨年9月、「21世紀のユース朝鮮通信使」と銘打った日韓両国の学生による研修行事で、日本語とハングルの両方で「朝鮮通信使」と記された旗を持ち、当時を疑似体験するウオーキングに参加した帝京大学外国語学部の学生、大木田琴里さん(21)はこう話す。

 一緒に参加したある友人は、両親から「韓国の反日感情」で嫌な思いをするのではないかと心配されたが、「自分の目で見た韓国」はマスコミなどを通じ喧伝(けんでん)されているイメージとは違うことを実感したという。

 時として先鋭に対立する昨今の日韓関係に通信使が語り掛けるものとは何か。金氏に尋ねると、「見本となる歴史から学び、今直面している懸案を解決する勇気を得ることが大事」という言葉が返ってきた。

(編集委員 上田勇実)